平成23年度 美保関沖事件殉職者追悼・参拝式 実施


 主催 美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰・護持会 (会長 川端広海)
 協賛 海軍クラブ美保錨会 (会長 菊地英夫) 


期日:平成23821(日曜日)午前10時半から1時間
場所:境港市台場公園 慰霊塔前
   

(雨天(のため、会場を「海とくらしの資料館に変更)

服装:軽装または略装     昼食会は1145、「峰」にて」


 今回は、昭和12年に行われた10周忌の慰霊祭に、台場公園を埋め尽くした米子中学、米子高女、米子工業、米子商芸の生徒および境尋常高等小学校の高学年の児童により歌われた幻しの鎮魂歌「蕨と葦の殉難の歌」の追悼演奏を市民バンド、「さかいみなとウインド・アンサンブル」(団長松本幸永)により約70年ぶりに行い(戦後66年振り)、参列者に大きいな感動を与えた。
 
再現されるまぼろしの鎮魂歌「蕨と葦の殉難の歌」追悼演奏について

台場公園に聳える白亜の塔、あれは一体何なのかと思われる方が少なくありません。それは、昭和2824日の深夜に起こった連合艦隊の夜間、無灯火、特別戦技(近接雷撃)演習間に発生した艦艇の二重衝突事故(美保関沖事件)の殉職者119名の霊を追悼、顕彰する慰霊塔なのです。事故の翌年、1216日に美保関町および境の花町の住民が全国に浄財を求めて建立されました。

昭和128月、海軍在郷軍人会(境海友会)主催による10周忌の慰霊祭で、公園を埋め尽くした米中、米女、米子工業、米子商業の生徒および境尋常高等小学校の高学年の児童の合唱で歌われたのが鎮魂歌「蕨と葦の殉難の歌」です。この歌は昭和15年と17年に行われた慰霊祭でも歌唱された記録が境港市市史編纂室に残されています。

その歌が来る821(日曜)午前10時半から挙行される「美保関沖事件殉職者追悼・参拝式(83周忌)」で市民バンド、さかいみなとウインド・アンサンブル(松本幸永団長以下26)により追悼演奏されることになりました。この実現は多くの方々のご理解とご協力の賜物であります。

 ことの起こりは、長らく探し求めていましたその歌の歌詞が平成208月、境港市主催の80周忌慰霊祭の追悼展示会をご覧になった東本町の三島寿雄氏(「大山の蝶」の著者)から歌詞の提供を受けたことです。同氏については、「鎌倉蝶」今井彰著の「芥川龍之介と蝶と軍艦」の節に、美保関沖事件に言及し、三島寿雄氏が十周年の慰霊祭に12歳で参加されたことが記されています。

 蝶といへば、殉職された駆逐艦「蕨」の艦長、五十嵐中佐のご子息、理学博士、五十嵐邁氏は蝶の研究で著名で、日本蝶類学界の会長も務められ、なにかの因縁を感じます。 また平成21年の追悼・参拝式で境1中の女子生徒三名による初めて歌詞朗読の際に、一羽の黒アゲハ蝶が慰霊塔の周りを何度も何度も飛び回っていた姿を写真家住田恒夫氏が撮影され、これまた深い絆を感じます。 

 次に、楽譜の発見については、境港市市史編纂室長の小灘浩氏のご熱意で、昨年9月に「西小路界隈」矢倉節子著の中で発見されました。早速、境港教育委員会の遠藤恵裕委員長のご紹介で、同委員会の音楽専攻の松本幸永先生に発見された簡単な楽譜から吹奏楽器による演奏をお願いし、本年7月に同先生を団長とする市民バンド、さかいみなとウインド・アンサンブル12名のメンバーによる練習演奏を聞かせて頂きました。昭和15年と17年の慰霊祭に学童として参加し、今でも歌詞と調べを記憶されている花町の面谷規夫氏からうかがっていた通りの哀調のこもった荘重な調べで,心から感動しました。

821日の本番には同楽団の多数のメンバーによる追悼演奏が行なわれますので、その臨場感は素晴らしいものになろうと期待します。酷暑炎天下ですので、慰霊塔前の樹間の木陰で式および演奏を行います。是非共、多くの市民の方々に聞いて頂きたいと思います。歌詞をお配りしますので、口ずさんでいただければと幸甚の至りです。軽装、略装で気かるにご参加ください。殉職者の霊に対して大きな供養になろうかと存じます。          

補足:

1. 毎年行われる追悼・参拝式に連合艦隊司令長官高橋三古海軍大将の署名を縫い込んだ古い軍艦旗が捧持されます。 その理由は、この事故当時、同大将は連合艦隊参謀長(少将)として旗艦「長門」に座乗し、深夜の事故に直面し、翌朝まで美保湾に留まって救難活動を見守っていた事実から、この軍艦旗を掲げることは殉職者に対する大きな供養になろうかとの想いであります。この軍艦旗は、昭和11年に発足した海軍在郷軍人会「境海友会」に対して佐世保海軍軍需部から交付されたものです。「境海友会」から、「鳥取県西部海友会」を経て、平成201115日に結成された「美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会」に伝承されました。

2. 慰霊塔内部に一本の筒状のものが奉納安置されています。それは大正時代初期の駆逐艦の備砲、40口径8cm)単装砲の砲身です。大正初期の駆逐艦の備砲の砲身が当時のままの姿で保存されているのは稀有のことで、歴史的遺物と言へます。またその背後には触芯を除いた同時代の係留流機雷も据付けられています。これもまた貴重な歴史的遺物です。参拝の際にはこのような事も念頭に置かれて見学して頂きたいと思います。 この慰霊塔は殉職者の霊を追悼、顕彰するための墓標であると共に、重要な史跡でありなす。

3. この慰霊塔は終戦までは「忠魂碑」の文字が掲げられていました。戦後、日本占領の連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサ元帥の指令で剥ぎ取られ、無残な姿で放置されていましたが、昭和25年に発足した警察予備隊本部総監 林敬三氏(元鳥取県知事)の揮毫による「慰霊塔」の文字が掲げられました。 また慰霊塔基部の南壁に埋込まれていた事故を報じる大阪朝日新聞の記事を食刻した銅製の碑板も終戦後の混乱期に何者かに剥奪されました。 今回、美保神社に保管されているこの碑板と同形のものを一時借用して展示されることになりました。

4.
 慰霊塔頂部に八角形のカプセル状の構造体があります、 昭和2824日深夜に発生した衝突事故後、演習を中止して救難捜索活動が行われましたが遺体が発見できず、月末にやっと一体の遺体を収容し、92日に舞鶴鎮守府で行われる海軍合同蔡に間に合うよう駆逐艦で移送されました。 9月になって数体の遺体があがり、上道の火葬場で荼毘に付され、その遺骨の一部を紅玉、水晶、真珠、瑪瑙などの宝石と共に浄砂に混ぜてそのカプセル状の構造体の中に納められたと言われています。    
                                                                    実行委員長 松下薫

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12日、午後615分からのBSSテレビ、 テレポート山陰の中で放映、 「戦後66年・・・蘇る忠魂歌」。
日本海新聞、山陰中央新報および読売新聞でも大きく報道され、またNHKテレビのニュース番組で繰り返し放送されました。

式典で、 まぼろしの鎮魂歌が追悼演奏され、美保神社の奉納品「大阪朝日新聞の事故の速報記事を銅板に食刻印刷した銅製碑板が公開された。

 

追悼参拝式

             式次第   

国旗掲揚 (国家演奏 さかいみなとウインド・アンサンブル

           
                                  
                                                                        
         雨中、半旗掲揚

海軍クラブ美保錨会 矢田副会長、福本事務局長




  受付(参拝記念芳名録記載)および会場内の展示

 

 
朱塗りの三重塔は昭和5,6年頃に中野の海岸に漂着したものである、基部に「ワラビ」の刻印がある

   
   開式前の寸描
     
 

 
  式次第   

  
 司会進行、青年部長 邨田拓斗(島根大学法文学部2回生)

   ・慰霊塔顕彰護持会会長 川端広海 挨拶、追悼の言葉

   ・来賓紹介(岡空副会長)

   ・鎮魂歌「蕨と葦の殉難の歌」追悼演奏、 さかいみなとウインド・アン

 サンブル(松本幸永団長指揮)

   ・来賓追悼のお言葉 
         
     中村勝冶境港市長、
 
     住谷正仁自衛隊鳥取地方協力本部長 

     赤沢亮正衆議院議員


   
        

         
 



・海軍クラブ美保錨会 福本事務局長による追悼電報(海上自衛隊舞鶴地 方総監 佐々木邦弘海将)の披露

・大阪朝日新聞の事故速報記事を食刻印刷した銅製碑板(美保神社奉納品))を説明する横山禰宜


・献花、参拝
      

  
 献花・参拝 (ベートーベン交響曲第7番 演奏)

    
        
 
       
  ・国旗降下(国家演奏)

  ・閉式


    
動画(式次第)    株式会社 ネットマ-ケティングジャパン 製作

松下薫事務局長 あいさつ

慰霊塔顕彰護持会会長 川端広海 挨拶、追悼の言葉

鎮魂歌「蕨と葦の殉難の歌」追悼演奏、 さかいみなとウインド・アンサンブル(松本幸永団長指揮)

      中村勝冶境港市長

住谷正仁自衛隊鳥取地方協力本部長

   赤沢亮正衆議院議員

大阪朝日新聞の事故速報記事を食刻印刷した銅製碑板(美保神社奉納品)を説明する横山禰宜

海軍クラブ美保錨会 福本事務局長による追悼電報(海上自衛隊舞鶴地方総監 佐々木邦弘海将)

              終