加藤寛治

 1904年(明治37年)、戦艦「三笠」の砲術長として日露戦争に参加、それ迄の各砲塔単独による射撃を、鐘楼上の弾着観測員からの報告に基づいて砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した。

 1905年(明治38年)に海軍省副官兼海相秘書官に補任された。
 
 1907年(明治4.年)、伏見宮貞愛親王に随行して英国に出張。装甲巡洋艦「浅間」、「築波」の副長を歴任。109年(明治42年)駐英大使館付き武官、1911年(明治44年)、海軍兵学校教頭、校長を歴任。
 校長時代、入校式では、「当校は戦争に勝てばよいので、哲学も宗教も思想も必要なし」と訓示の中で述べていた。

 
 第一次世界大戦中、南遣枝隊の指揮官として英国海軍と共同してドイツ艦艇の警戒に任じた。この時の指揮統率は見事であったという。 
 
 1920年(大正9年)に海軍大学校校長を勤めた。ワシントン会議には、随員として赴くが、軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の首席全権、加藤友三郎(海軍大臣)と激しく対立する。

 1926年(大正15年)12月から1928年(昭和3年)まで連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令官、その間に海軍大将に昇任している。
 東郷平八郎の「訓練に制限なし」という言葉、「百発必中」の精神をモットーに猛訓練を行い、実戦を模した演習を主導した。

 1927年(昭和2年8月24日)の美保関沖で実施した夜間、近接、雷撃演習で、演習開始直前に第一艦隊(防御側)から第二艦隊(攻撃側)に急遽編成配置替えを行った第27駆逐隊の「蕨」、「葦」の二十衝突の大事件を起こし、殉職者119名を出した。加藤は「実戦ではそのような配置換えは屡生じるものだ」と述べている。

 事件翌月の9月1日、舞鶴鎮守府で行われた海軍合同慰霊祭の後に、全軍に対し「この訓練、演習を続行する」ことを明言し、将兵の理解を求め。演習は津軽海峡で、そしてを北陸沖の太平洋海域でも行われた後に横須賀に帰港。演習編成を解いた。
 
 美保関沖事件た査問委員会で査問に付せられたが責任問題は避けられた。

 1929年昭(昭和4年) 、鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後任として、海軍軍令部長(後の軍令部総長)に親補された。
 ロンドン海軍軍縮条約批准においても、巡洋艦の対米英比率7割を強硬に主張し、浜口雄幸首相、財部海相と対立。これが統帥権干犯問題に発展して、1930年(昭和5年)の条約批准後に帷幕上辞表奏し(昭和天皇に直接辞表を提出)、軍令部長を辞任した。
 
 晩年、元帥府に列する話が持ち上がったが、艦隊派に対する条約派の反対で沙汰やみになった。1935年(昭和10年)後備役。1939年(昭和4年)、脳出血により死去。正八位、勲二等瑞宝章。

  加藤寛治は、軍令部長の伏見宮殿下および終身現役の東郷平八郎元帥と共に、米英の艦隊に対して数的劣勢で戦うため。強固な精神至上主義を掲げ、後の特攻に繋がる観念の基盤を確立したのだ。