境港市指定の文化財、「慰霊塔」を国指定の史跡として認定申請する理由

 慰霊塔(忠魂碑)の建設、および以降の経緯を通じて、その歴史的意義の認識

始めに、日本海新聞に記載された「慰霊所傾く、補強か新設か、市、対応を考える」記事は実態を把握し、各種の資料を精査され、問題を提起された真に時宜を得た報道であった。市民の大きな関心を呼び起こしている。

 二年前に、海とくらしの史料館館長、南家久光氏が最初に指摘された塔の傾斜の危惧がこのような形でに取り上げられたことは、当市で数少ない遺跡の保存と次世代への伝承を望む境港市民にとって極めて喜ばしいことである。

この慰霊塔(忠魂碑)は昭和2824日の深夜、美保関沖で演習中に起こった艦艇の二重衝突事故(美保関沖事件)後、在郷軍人会境町分会、境町青年団、西伯郡海軍班の主唱により「忠魂碑建設期成会を組織し、鳥取県補助金五百円、境町助成金二千円の後援を受け、高松宮、東伏見宮両殿下のご下賜金(四十円)を賜るなど全国各地の熱誠な協賛を得て、預金金利を含み計、一万三千五百三十四円の浄財で、工事費一万三千円、工期を昭和3826日から同年1130日とし、設計は岡田孝勇工学士(島根県出身)、施工は鴻池組で建設された。

 建設位置は、艦艇の二重衝突事故の殉難将兵の捜索、救助の本拠地とされた由緒ある台場の丘上である(土筆亭の隣接地)。塔の頂部の六角形のカプセル状の構造物(納骨室)の内部には、上道火葬場で荼毘にふされた数体の殉職者の遺骨,遺灰の一部を純銀製の箱に収め、その周囲に紅玉、水晶、真珠、瑪瑙など十四種の宝石と昭和年号の貨幣、および小銃弾を浄沙に混ぜて充填、コンクリートで密閉されている。建築概要記録が残っている。

 この塔は殉難将兵119名の墓標であり、また、駆逐艦「蕨」に衝突し、自責の念で自裁された二等巡洋艦「神通」艦長の水城 圭次(みずしろ けいじ)中佐の霊も合祀されている。

 塔の基部構造の局舎内に収められた砲身は大正末期の駆逐艦の備砲、40口径安式87(No.791)で局舎内に設置されていたためか、GHQの撤去指示を逃れ、風雨に曝されることなく良好な状態を保っている。

  山陰地方初めて建設されたコンクリート造りの建造物として境港市指定の文化財、「慰霊塔」を軍事遺跡として認定申請する理由は次の通りである。

慰霊塔(忠魂碑)の建設、および以降の経緯を通じて、その歴史的意義の認識

始めに、日本海新聞に記載された「慰霊塔傾く、補強か新設か、市、対応を考える」記事事事は実態を把握し、各種の資料を精査され、問題を提起された真に時宜を得た報道であった。市民の大きな関心を呼び起こしている。

 二年前に、海とくらしの史料館館長、南家久光氏が最初に指摘された塔の傾斜の危惧がこのような形でに取り上げられたことは、当市で数少ない遺跡の保存と次世代への伝承を望む境港市民にとって極めて喜ばしいことである。

この慰霊塔(忠魂碑)は昭和2824日の深夜、美保関沖で演習中に起こった艦艇の二重衝突事故(美保関沖事件)後、在郷軍人会境町分会、境町青年団、西伯郡海軍班の主唱により「忠魂碑建設期成会を組織し、鳥取県補助金五百円、境町助成金二千円の後援を受け、高松宮、東伏見宮両殿下のご下賜金(四十円)を賜るなど全国各地の熱誠な協賛を得て、預金金利を含み計、一万三千五百三十四円の浄財で、工事費一万三千円、工期を昭和3826日から同年1130日とし、設計は岡田孝勇工学士(島根県出身)、施工は鴻池組で建設された。

 建設位置は、艦艇の二重衝突事故の殉難将兵の捜索、救助の本拠地とされた由緒ある台場の丘上である(土筆亭の隣接地)。塔の頂部の六角形のカプセル状の構造物(納骨室)の内部には、上道火葬場で荼毘にふされた数体の殉職者の遺骨,遺灰の一部を純銀製の箱に収め、その周囲に紅玉、水晶、真珠、瑪瑙など十四種の宝石と昭和年号の貨幣、および小銃弾を浄沙に混ぜて充填、コンクリートで密閉されている。建築概要記録が残っている。

 この塔は殉難将兵119名の墓標であり、また、駆逐艦「蕨」に衝突し、自責の念で自裁された二等巡洋艦「神通」艦長の水城 圭次(みずしろ けいじ)中佐の霊も合祀されている。

 塔の基部構造の局舎内に収められた砲身は大正末期の駆逐艦の備砲、40口径安式87(No.791)で局舎内に設置されていたためか、GHQの撤去指示を逃れ、風雨に晒されることなく良好な保存状態を保っている。同じく局舎内に保存されている浮遊爆雷缶(機雷)も良好な状態に維持されている。これは全国的に見て稀有のことで、これらは貴重な海軍の遺物である。呉から受領した50尋の鉄連は敗戦の混乱期に紛失したものと考えられる。

 塔に供える駆逐艦備砲の砲身など、「廃兵器の無償払下げに」関する境町長から呉鎮守府司令長官宛ての請願書、および海軍大臣岡田啓介海軍大将宛ての請願文書、および呉鎮守府からの払下げ品(砲身、機雷、鉄錬50)の通知文書の記録が残されている。鉄錬は現在なく、戦後の混乱期に盗奪されたものと推定される。

 局舎の正面左の壁面に歴史学者、京都帝国大学教授、文学博士 三浦周行の追悼碑板が取付られている(昭和三年)。局舎の北面の壁の下部に大阪毎日新聞の事故速報が掲載された紙面の銅製碑板が取付けられていたが、戦後の混乱期に剥奪された(その痕跡がみられる)。同じものが島根半島東部の五本松公園内に建設された平和記念塔(慰霊塔)にもあったが、戦後の盗難を避け、美保神社に保管され現在も良好な状態に保たれている。この失われら銅製碑板を復元して奉納するための浄財募金活動が行われており、目標額二十万円に対して,現在(平成27年末)、十四万六千円のご寄付を戴いており、引続き募金活動を進めている。

 この碑板に彫刻された新聞報道は海軍の見事な情報公開の実が表されている。これは事故翌日、連合艦隊司令長官、加藤寛治大将が旗艦「長門」に報道機関の記者を招致し、事故の実相と被害について包み隠さずに発表された。海軍と国民との日頃の信頼関係を如実に表すものだ。事故の実態を知った美保関および境町の青年団員や漁民は積極的に殉難者の捜索、救助に立ち上がった。また、事故の原因、責任を明らかにする軍事法廷には各艦長,駆逐隊司令らの減刑を求める多くの国民の陳情運動があった。過酷な海軍の訓練、演習を国民は多大の期待と激励の心情で見守るっていたことがわかる。

次に、過去87年にわたる追悼式、慰霊祭等の実施の経緯は次の通りである。

1.昭和2831日、境町長主催の七日法要、「海軍殉職将兵追悼式」が面谷酒造東側の台場公園内で仏式で行なわれた。境町長から松江連隊区司令官宛ての「海軍殉難将卒追悼会へのご参列願い」、来賓に対するご参列願いの案内文書記録および写真記録が残されている。また、祭祀として用いられた大きな位牌が三年前に花町の般若寺の蔵の中で発見され、平成25年の追悼参拝式で80年ぶりに公開,披露された

2.昭和31216日、寒風吹き荒び霰交じる午前11時より忠魂碑除幕式が神式で執行された。忠魂碑前で撮影された記念写真には、前列中央に建設期成会長、作野諒之助陸軍軍医、足立民一郎、熊本某、面谷誠、影山善次郎、戸田海軍准士官の諸氏の姿が見られる。式は「派遣の駆逐艦「樅」の儀仗兵の参列と、鳥取県知事久保豊四郎閣下その他顕官諸賢の臨席の下、忠魂歌を合唱、十数名の遺族を含む四百余名の参列者一同、涙新たに殉職者の英霊を弔ふたり」、との記録が残されている。

3.昭和48月、連合艦隊六十余隻が総合演習途次、美保湾に終結(旗艦は「山城」)。境町は町を挙げて歓迎。昭和四年の記念スタンプを押した写真セットが残されている。連合艦隊港外仮泊と同時に挙行された三年祭には、司令長官谷口尚眞大将以下各艦長を初め多数の将星参列の下に盛大に挙行せられ荘厳裏に終了せり、と記録されている。

 また、昭和3年から昭和11年までの、閑院宮春仁親王殿下、賀陽宮恒憲王殿下、澄宮崇仁王殿下、高松宮宣仁親王殿下、久邇宮大妃殿下の五名の宮殿下、大蔵大臣、内務大臣、鉄道大臣、宮内省諸陵頭、および三十余名の陸海海軍大将、中将、少将(海軍が主)の参拝者芳名録が残されている。

4.昭和11年、在郷軍人会結成令により、境海軍在郷軍人会「境海友会」が発足、海軍機関特務中尉戸田繁蔵氏が佐世保軍部から連合艦隊司令長官、海軍大将高橋三吉提督の揮毫(境海友会 高橋三吉)入りの軍艦旗を交付された。事後、境海友会が敗戦前の昭和19年までこの軍艦旗を掲げて毎年追悼、参拝式を実施してきた。麻製の古色を帯びた軍艦旗は現存、慎重に管理されている。

 高橋三吉大将は美保関沖事件当時、連合艦隊参謀長を務め、戦艦「長門」に座乗し、艦艇二重衝突事故に対面している。さらに、演習開始直前、夜間、無灯火、雷撃演習を今まで実施してなかった第27駆逐隊を命令により所属区分の甲軍(防御側)から乙軍(攻撃側)に急遽配置変更するのは極めて危険であるとの第一水雷戦隊参謀小沢治三郎中佐の意見具申を司令長官に進達しなかったことが記録されている。揮毫入りの軍艦旗には忠魂碑の清掃、追悼式を行う「境海友会」に対して特別な配慮があったのか。(注:小沢中佐は海上指揮官として海軍の第一人者として評価され、最後の連合艦隊司令長官を務めた)

5.昭和11年に実施された在郷軍人境海友会主催の追悼式には米中、米女、境尋常高等小学校からの生徒、児童が多数参列し、鎮魂歌「葦と蕨の殉難の歌」が合唱された。米中の三島寿雄氏、境小の面谷則夫氏が参加されている。三島、面谷両氏の証言。 また郷土の女流作家、矢倉節子著作の「西小路界隈」に「葦と蕨の殉難の歌」を歌った感想が述べられている。「荘重な調べで、心に残る鎮魂歌である」と。

 同書に収録されていた「葦と蕨の殉難の歌」の歌詞と簡単な五線譜をもとに、境港ウインドアンサンブル楽団の指揮者、松本幸永団長が簡単な楽譜から見事に編曲した「葦と蕨の殉難の歌」(幻の鎮魂歌と云われていた)を平成25年の第85周忌の追悼参拝式で演奏、参列者に大きな感動を与えた。この曲の完成に至るまで、昭和11年の10周年追悼式で実際に歌われた面谷則夫氏に慰霊塔の前で歌って頂き、その録音を参考に荘重感を出すなど編曲に多くのご苦労があった。

6.昭和17826日、境町主催の「海軍蕨葦殉難将士十五年祭、大東亜戦争戦果報告祭」が多数の遺族を招いて神式で行われた。時節柄、「尽忠報国」、「忠勇義烈」の大きな幟がはためいていた。舞鶴軍港から駆逐艦一隻が派遣された。軍艦の一般公開、海軍軍楽隊の市中行進、海軍写真展示会、台場公園での軍楽隊演奏会など各種の催しがあった。式次第、写真記録が残されている。

7.昭和22年、昭和天皇の境町巡行(境港市35周年史に記載)に際し、台場の無標の塔にお立ち寄りがあった。陛下は「忠魂碑」の青銅浮彫文字が剥ぎ取られた無残な姿の塔をご覧になった。郷土の写真家、植田正司氏が陛下の近影スナップ撮影している。境町の町史にはこのお立ち寄りの事実は記録されてない。

8.戦後、呉鎮守府から復員した境港市在住の坂本定雄、山田誠一、梶川石太郎、島田啓、角本専次、角孝の六名が、昭和20年代末、在郷軍人「境海友会」の奉持する軍艦旗を継承して「境海友会」を再興、以後、毎年527日の海軍記念日に伝統の軍歌旗を奉持し、山田誠一氏が読経を唱えるなど密かな供養が続けられた。

9.昭和32年、境港市が事故三十周年慰霊祭を実施。元鳥取県官選知事で、防衛庁統合幕僚会議議長の林敬三氏の書になる「慰霊塔」の青銅浮彫の取付補修工事が行われた。補修費は十一万五千円、設計は境港市建設課、施工は境港土建㈱。

10.昭和52年、境港市主催の事故五十周年慰霊祭が行われた。「蕨」艦長の五十嵐中佐のご子息、五十嵐邁氏を含むご遺遺族を招致して行われた。五十嵐邁氏は海上自衛隊派遣の護衛艦に乗艦、事故現場の海上で花束贈呈がおこなわれ、航空自衛隊美保基地からもこの洋上追悼式に上空から参加し、C-46輸送機の編隊飛行が実施された。

11.昭和545月、鳥取県西部地区の各種海軍団体を糾合して結成した「鳥取県西部海友会」の発足に際し、この軍艦旗を引継ぎ、会員の高齢化のため平成201115日に解散するまで30年間にわたり毎年海軍記念日の527日に慰霊祭が実施してきた(創立10周年当の在籍会員は120名を数えた)。「鳥取県西部海友会」は10周年、および20周年の各記念事業として、石造の「焼香台」および「艦艇衝突配置図」碑板を奉納した。
 また、第二代会長、坂本定雄氏が自費で三浦周行文学博士書の碑文の墨入れを外注(風化で文字の判読不能のため)、また第二代副会長、山崎光男氏の作業で国旗掲揚台のポール頂部の滑車を取り換える(錆び付きで掲揚不能のため)など自主的に設備の整備が実施された。


 鳥取県西部海友会は衆議院議員相沢英之氏を顧問に仰ぎ、護衛艦入港歓迎アットホーム(歓迎、激励レセプション)を独自で長年にわたり実施し、安田市長、下西市議会議長、広島、栗原両県議会議員(後の安田優子、森岡俊夫県会議員)を始め多くの市民参加で乗員の慰労、激励を行ってきた。これら慰霊祭の実施および防衛協力事業に対して自衛隊鳥取地方連絡部長、海上自衛隊舞鶴地方総監、海上幕僚長から感謝状が授与され、また自衛隊観艦式への招待、小泉首相主催の「桜を見る会」(新宿御苑)に招待される栄を賜った。

 平成111020、北朝鮮のミサイル発射の監視のため日本海に派遣された米海軍駆逐艦「クッシング」(9700) の境港寄港に際し、艦長、マーチン・スチュアート・サイモン中佐に慰霊塔参拝を勧め、「艦艇衝突配置図」を説明するなど、乗員との交流を行った。ロバート・ヨルダン米国総領事(在大阪)および同総領事館、天野到政治・経済専門官が慰霊塔に同行立会した。境港市から外事顧問、梅谷陽治氏が艦内会議に参加され、艦上レセプションでの通訳を勤められた。

12.平成18319日、松江市観光協会文化プロジューサ高橋一清氏(元文芸春秋編集長)の先導で五十風邁氏が実姉の水利笑子様と共に慰霊塔を参拝された。鳥取県西部海友会松下会長、山崎副会長が立会、「鎮魂の鐘」を記念品として贈呈した。翌日、松江市一畑ホテルで高橋一清氏主催の「美保関のかなたへ」の文庫本出版記念会が開催され、海友会役員や賛助会員の門永朝重氏、遠藤量氏、黒目友則夫妻、境港市根平教育長、福祉課職員、郷土史研究家の木村亘氏など多数が参加した。

局舎内に保存されている駆逐艦備砲の砲身と浮遊爆雷缶(機雷)も良好な状態に維持されている。これは全国的に見て稀有のことで、これらは貴重な海軍の遺物である。呉から受領した50尋の鉄連は敗戦の混乱期に紛失したものと考えられる。

 塔に供える駆逐艦備砲の砲身など、「廃兵器の無償払下げに」関する境町長から呉鎮守府司令長官宛ての請願書、および海軍大臣岡田啓介海軍大将宛ての請願文書、および呉鎮守府からの払下げ品(砲身、機雷、鉄錬50)の通知文書の記録が残されている。鉄錬は現在なく、戦後の混乱期に盗奪されたものと推定される。

 局舎の正面左の壁面に歴史学者、京都帝国大学教授、文学博士 三浦周行の追悼碑板が取付られている(昭和三年)。局舎の北面の壁の下部に大阪毎日新聞の事故速報が掲載された紙面の銅製碑板が取付けられていたが、戦後の混乱期に剥奪された(その痕跡がみられる)。同じものが島根半島東部の五本松公園内に建設された平和記念塔(慰霊塔)にもあったが、戦後の盗難を避け、美保神社に保管され現在も良好な状態に保たれている。この失われら銅製碑板を復元して奉納するための浄財募金活動が行われており、目標額二十万円に対して,現在(平成27年末)、十四万六千円のご寄付を戴いており、引続き募金活動を進めている。

 この銅製碑板に彫刻された新聞報道は海軍の見事な情報公開の実が表されている。これは事故翌日、連合艦隊司令長官、加藤寛治大将が旗艦「長門」に報道機関の記者を招致し、事故の実相と被害について包み隠さずに発表された。海軍と国民との日頃の信頼関係を如実に表すものだ。事故の実態を知った美保関および境町の青年団員や漁民は積極的に殉難者の捜索、救助に立ち上がった。また、事故の原因、責任を明らかにする軍事法廷には各艦長,駆逐隊司令らの減刑を求める多くの国民の陳情運動があった。過酷な海軍の訓練、演習を国民は多大の期待と激励の心情で見守るっていたことがわかる。

  次に、過去87年にわたる追悼式、慰霊祭等の実施の経緯は次の通りである。

1.昭和2831日、境町長主催の七日法要、「海軍殉職将兵追悼式」が面谷酒造東側の台場公園内で仏式で行なわれた。境町長から松江連隊区司令官宛ての「海軍殉難将卒追悼会へのご参列願い」、来賓に対するご参列願いの案内文書記録および写真記録が残されている。また、祭祀として用いられた大きな位牌が三年前に花町の般若寺の蔵の中で発見され、平成25年の追悼参拝式で80年ぶりに公開,披露された

2.昭和31216日、寒風吹き荒び霰交じる午前11時より忠魂碑除幕式が神式で執行された。忠魂碑前で撮影された記念写真には、前列中央に建設期成会長、作野諒之助陸軍軍医、足立民一郎、熊本某、面谷誠、影山善次郎、戸田海軍准士官の諸氏の姿が見られる。式は「派遣の駆逐艦「樅」の儀仗兵の参列と、鳥取県知事久保豊四郎閣下その他顕官諸賢の臨席の下、忠魂歌を合唱、十数名の遺族を含む四百余名の参列者一同、涙新たに殉職者の英霊を弔ふたり」、との記録が残されている。

3.昭和48月、連合艦隊六十余隻が総合演習途次、美保湾に終結(旗艦は「山城」)。境町は町を挙げて歓迎。昭和四年の記念スタンプを押した写真セットが残されている。連合艦隊港外仮泊と同時に挙行された三年祭には、司令長官谷口尚眞大将以下各艦長を初め多数の将星参列の下に盛大に挙行せられ荘厳裏に終了せり、と記録されている。

また、昭和3年から昭和11年までの、閑院宮春仁親王殿下、賀陽宮恒憲王殿下、澄宮崇仁王殿下、高松宮宣仁親王殿下、久邇宮大妃殿下の五名の宮殿下、大蔵大臣、内務大臣、鉄道大臣、宮内省諸陵頭、および三十余名の陸海海軍大将、中将、少将(海軍が主)の参拝者芳名録が残されている。

4.昭和11年、在郷軍人会結成令により、境海軍在郷軍人会「境海友会」が発足、海軍機関特務中尉戸田繁蔵氏が佐世保軍部から連合艦隊司令長官、海軍大将高橋三吉提督の揮毫(境海友会 高橋三吉)入りの軍艦旗を交付された。事後、境海友会が敗戦前の昭和19年までこの軍艦旗を掲げて毎年追悼、参拝式を実施してきた。麻製の古色を帯びた軍艦旗は現存、慎重に管理されている。

 高橋三吉大将は美保関沖事件当時、連合艦隊参謀長を務め、戦艦「長門」に座乗し、艦艇二重衝突事故に対面している。さらに、演習開始直前、夜間、無灯火、雷撃演習を今まで実施してなかった第27駆逐隊を命令により所属区分の甲軍(防御側)から乙軍(攻撃側)に急遽配置変更するのは極めて危険であるとの第一水雷戦隊参謀小沢治三郎中佐の意見具申を司令長官に進達しなかったことが記録されている。揮毫入りの軍艦旗には忠魂碑の清掃、追悼式を行う「境海友会」に対して特別な配慮があったのか。(注:小沢中佐は海上指揮官として海軍の第一人者として評価され、最後の連合艦隊司令長官を務めた)

5.昭和11年に実施された在郷軍人境海友会主催の追悼式には米中、米女、境尋常高等小学校からの生徒、児童が多数参列し、鎮魂歌「葦と蕨の殉難の歌」が合唱された。米中の三島寿雄氏、境小の面谷則夫氏が参加されている。三島、面谷両氏の証言。 また郷土の女流作家、矢倉節子著作の「西小路界隈」に「葦と蕨の殉難の歌」を歌った感想が述べられている。「荘重な調べで、心に残る鎮魂歌である」と。

同書に収録されていた「葦と蕨の殉難の歌」の歌詞と簡単な五線譜をもとに、境港ウインドアンサンブル楽団の指揮者、松本幸永団長が簡単な楽譜から見事に編曲した「葦と蕨の殉難の歌」(幻の鎮魂歌と云われていた)を平成25年の第85周忌の追悼参拝式で演奏、参列者に大きな感動を与えた。この曲の完成に至るまで、昭和11年の10周年追悼式で実際に歌われた面谷則夫氏に慰霊塔の前で歌って頂き、その録音を参考に荘重感を出すなど編曲に多くのご苦労があった。

6.昭和17826日、境町主催の「海軍蕨葦殉難将士十五年祭、大東亜戦争戦果報告祭」が多数の遺族を招いて神式で行われた。時節柄、「尽忠報国」、「忠勇義烈」の大きな幟がはためいていた。舞鶴軍港から駆逐艦一隻が派遣された。軍艦の一般公開、海軍軍楽隊の市中行進、海軍写真展示会、台場公園での軍楽隊演奏会など各種の催しがあった。式次第、写真記録が残されている。

7.昭和22年、昭和天皇の境町巡行(境港市35周年史に記載)に際し、台場の無標の塔にお立ち寄りがあった。陛下は「忠魂碑」の青銅浮彫文字が剥ぎ取られた無残な姿の塔をご覧になった。郷土の写真家、植田正司氏が陛下の近影スナップ撮影している。境町の町史にはこのお立ち寄りの事実は記録されてない。

8.戦後、呉鎮守府から復員した境港市在住の坂本定雄、山田誠一、梶川石太郎、島田啓、角本専次、角孝の六名が、昭和20年代末、在郷軍人「境海友会」の奉持する軍艦旗を継承して「境海友会」を再興、以後、毎年527日の海軍記念日に伝統の軍歌旗を奉持し、山田誠一氏が読経を唱えるなど密かな供養が続けられた。

9.昭和32年、境港市が事故三十周年慰霊祭を実施。元鳥取県官選知事で、防衛庁統合幕僚会議議長の林敬三氏の書になる「慰霊塔」の青銅浮彫の取付補修工事が行われた。補修費は十一万五千円、設計は境港市建設課、施工は境港土建㈱。

10.昭和52年、境港市主催の事故五十周年慰霊祭が行われた。「蕨」艦長の五十嵐中佐のご子息、五十嵐邁氏を含むご遺遺族を招致して行われた。五十嵐邁氏は海上自衛隊派遣の護衛艦に乗艦、事故現場の海上で花束贈呈がおこなわれ、航空自衛隊美保基地からもこの洋上追悼式に上空から参加し、C-46輸送機の編隊飛行が実施された。

11.昭和545月、鳥取県西部地区の各種海軍団体を糾合して結成した「鳥取県西部海友会」の発足に際し、この軍艦旗を引継ぎ、会員の高齢化のため平成201115日に解散するまで30年間にわたり毎年海軍記念日の527日に慰霊祭が実施してきた(創立10周年当の在籍会員は120名を数えた)。「鳥取県西部海友会」は10周年、および20周年の各記念事業として、石造の「焼香台」および「艦艇衝突配置図」碑板を奉納した。
 また、第二代会長、坂本定雄氏が自費で三浦周行文学博士書の碑文の墨入れを外注(風化で文字の判読不能のため)、また第二代副会長、山崎光男氏の作業で国旗掲揚台のポール頂部の滑車を取り換える(錆び付きで掲揚不能のため)など自主的に設備の整備が実施された。


 鳥取県西部海友会は衆議院議員相沢英之氏を顧問に仰ぎ、護衛艦入港歓迎アットホーム(歓迎、激励レセプション)を独自で長年にわたり実施し、安田市長、下西市議会議長、広島、栗原両県議会議員(後の安田優子、森岡俊夫県会議員)を始め多くの市民参加で乗員の慰労、激励を行ってきた。これら慰霊祭の実施および防衛協力事業に対して自衛隊鳥取地方連絡部長、海上自衛隊舞鶴地方総監、海上幕僚長から感謝状が授与され、また自衛隊観艦式への招待、小泉首相主催の「桜を見る会」(新宿御苑)に招待される栄を賜った。

 平成111020、北朝鮮のミサイル発射の監視のため日本海に派遣された米海軍駆逐艦「クッシング」(9700) の境港寄港に際し、艦長、マーチン・スチュアート・サイモン中佐に慰霊塔参拝を勧め、「艦艇衝突配置図」を説明するなど、乗員との交流を行った。ロバート・ヨルダン米国総領事(在大阪)および同総領事館、天野到政治・経済専門官が慰霊塔に同行立会した。境港市から外事顧問、梅谷陽治氏が艦内会議に参加され、艦上レセプションでの通訳を勤められた。
 慰霊塔の見学に際し、
艦長、サイモン中佐は、「何故にこのような危機極まる演習を実施しなければならなかったのか?」、と問い、筆者は、「総てワシントン条約で決められた主力艦艇の保有率(英米ともに10にたいして日本は6)に起因し、日本海軍は数量の劣勢を猛訓練、実戦的演習により補完すべく策定するしか対抗策は「なかったのだ、所謂、精神至上主義の発露の結果」、と答えた。中佐は続いて、「連合艦隊司令長官に対する処置は」、と問い、「何等の処罰を受ける事無く、舞鶴軍港で海軍合同慰霊祭を行った後に、だ訓練を続けた」と答え、「翌年、海軍軍令部次長の職に転じ、その後、軍令部長(軍令部総長)の職位にに栄達した」と答えた。
 中佐は言葉なく、塔を見上げて、「これはヒストリカル・レガシイ」だと呟いた。そして「明日、乗組員を見学させるので、説明してもらえるか」と言い、「喜んで」、と答えた。


12.
平成18319日、松江市観光協会文化プロジューサ高橋一清氏(元文芸春秋編集長)の先導で五十風邁氏が実姉の水利笑子様と共に慰霊塔を参拝された。鳥取県西部海友会松下会長、山崎副会長が立会、「鎮魂の鐘」を記念品として贈呈した。翌日、松江市一畑ホテルで高橋一清氏主催の「美保関のかなたへ」の文庫本出版記念会が開催され、海友会役員や賛助会員の門永朝重氏、遠藤量氏、黒目友則夫妻、境港市根平教育長、福祉課職員、郷土史研究家の木村亘氏など多数が参加した。

13.平成19819日、境港市主催の「美保関沖海難事故80周年追悼式」が行われた。福岡、鹿児島在のご遺族三家族、五名の参加があり、式は境港市役所の有志のバンドの演奏下で厳かに行われた。海上自衛隊舞鶴地方総監部からは総監代理で幕僚長、鮒田海将捕が参列された。

同日、境港市主催の「葦蕨殉職者八十周年追悼展示」が海とくらしの史料館内で鳥取県西部海友会の協賛で行われた。展示にはこの事件の研究家、高橋一清氏が自ら足を運んで収集し、境港市に提供された殉難者の遺影が初公開された。中村勝治境港市長、舞鶴総監部幕僚長鮒田海将捕も数十隻のモデル艦を配置した演習状況パノラマ展示を熱心に見学された。


14.平成201115日、鳥取県西部海友会の創立30周年記念式後の解散式と同時に立ち上げた「美保関沖事件慰霊塔顕彰護持会」および「海軍クラブ美保錨会」が鳥取県西部海友会の行事を継承し、昭和11年、佐世保軍需部から受領した伝統の軍艦旗を奉持した。両会は平成21年から毎年824日に追悼参拝式を共催し、現在に至っている。

式は中村市長、舞鶴地方総監(名代)の追悼の言葉を始め、赤沢衆議院議員、舞立参議院議員、安田、森岡両県会議員県、自衛隊鳥取地方協力本部長、航空自衛隊美保基地司令、陸上自衛隊米子駐屯地司令、航空自衛隊高尾山分屯基地司令など来賓を含め、100余名の参列の下、境港ウインドアンサンブル楽団の演奏下で行われている。昨年来、境港市寿クラブ女子委員会委員長以下多数の婦人の参加があり。参列者数は毎年増加している。また中学生の自主参加ボランティア(受付、来賓案内、献花係、会場の整理作業等)も定着してきた。これらの中学生に対しては、郷土史の補修教育の一環として、資料を作成、配布、説明している。

その他
 平成21107日、海上自衛隊舞鶴地方総監、宮浦弘児海将が視察旅行の途次、慰霊塔に立寄られ参拝された。これは美保関沖事件慰霊塔顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会が共催し行う初めての追悼参拝式に参列の案内を受け、「日程上、参加できなかったので、今次の視察の日程に入れました」とのお言葉であった。慰霊塔顕彰護持会の川端広海会長、松下事務局長、海軍クラブ美保錨会の菊地英夫会長、福本事務局長が立会した。山陰放送テレビの取材があり、宮浦総監および川端会長のコメンが放映された。総監、宮浦弘児海将のコメントは、「尊い犠牲の上に海上自衛隊がある、との思いを強くした。事故の教訓を大事にしないといけない」と話された。参拝後、割烹「峰」の喫茶部で小憩、懇談。総監をお見送りした。

松江市観光協会文化プロジューサ、高橋一清氏(元文芸春秋者編集長)のご協力については、松江市カラコロ工房における文化サロンで「美保関事件」に関するトークショウの企画、実施(平成25821)、慰霊祭に関する新聞(毎日新聞連載「近景,遠景」)記事に掲載など、式典参加に加え多大のご理解、協力を賜っている。

平成2846日、海上自衛隊舞鶴地方総監、菊池聡海将主催の恒例の「観桜会」(市民と海上自衛隊との夕べ)に参加した海軍クラブ美保錨会、菊池英夫会長および慰霊塔顕彰護持会、岡空研二会長が、総監部監理部長に「慰霊塔の歴史的経緯および傾斜問題の対応について」の文書を提示、説明した。(これは境港市教育長の、「海上自衛隊の協力が得られれば」、との意を忖度したものである。

  この外、毎年の追悼参拝式において、海軍記念館準備室保管の膨大な記録の中から、また境港市前市史編纂室長小灘浩氏、前教育長根平雄一郎氏らが新たに発見された貴重な文書記録の展示、米子市在住の松本清太郎氏保有の「贈ワラビ」の刻み文字のある一刀彫、根来塗の三重の塔(30)が公開された。この朱塗りの三重の塔は昭和2831日に行われた七日法要の祭事に用いられたと見られる具物で、海中に供養投入され、長期間美保湾を回遊して中浜の浜辺に打ち上げられたものと推測される。埋もれた新たな資料の発見は現在も続いている。

結言

以上、記述の通り、この塔は,連合艦隊大演習中の演習事故の殉職者の墓標であると共に、貴重な海軍の遺物を含み、海軍の歴史的記録を刻んだ遺跡であることがわかる。慰霊塔の傾斜問題の対応は、この塔の歴史を認識することがその第一歩である。この塔は、山陰最古の鉄筋コンクリート造りの歴史的建築物としての境港市指定の文化財であると同時に、その内容および多くの記録文書を含め、まずは、海軍の遺跡(史跡)としての指定を求め、次に、1995(平成7)36日、文化財保護法の指定基準の改正の趣旨に基づき、市当局から国に対して史跡認定の申請をして戴くように図ることが後世のため必要であろう。この手続は塔が現在位置において現状を維持している間に行う事が重要である。

 傾斜に対する対応は、原位置における補強、復元による処置を希求し、その費用は国庫または民間財団の支援を図るべく官民挙げて最大の努力が望まれる。  

                             文責:海軍記念館美保準備室主幹 松下薫(元鳥取県西部海友会会長)