美保関沖事件に関与する三人の提督
  (副題;美保関沖事件から連合艦隊壊滅までの流れの実相)

加藤寛治大将(当時、連合艦隊司令長官)

福井の生まれ。1891年(明治24年)に海軍兵学校18首席卒業。砲術練習所学生、戦艦「富士」回航委員(英国出張)・分隊長、通報艦「龍田」航海長などの役目を果して、ロシア駐在となった。この時、同地にいた広瀬武夫と親しくしていた。

1904年(明治37年)3月、戦艦「三笠」砲術長として日露戦争に参加し、それ迄の各砲塔単独による射撃を、檣楼上の弾着観測員からの報告に基いて砲術長が統制する方式に改め、遠距離砲戦における命中率向上に貢献した戦争後半の1905年(明治38年)2月に海軍省副官兼海相秘書官として勤務した。

戦後、1907年(明治40年)1月から8月まで伏見宮貞愛親王に随行しイギリスに出張し、装甲巡洋艦「浅間」「筑波」副長を歴任。
 1909年(明治42年)、
駐英大使館付武官。1911年(明治44年)、海軍兵学校教頭。

第一次世界大戦中、南遣枝隊の指揮官としてイギリス海軍と協同してドイツ艦船の警戒に任じた。この時の指揮統率は見事であったという。1920年(大正9年)6月に海軍大学校校長を務めた、ワシントン会議には首席随員として赴くが、ワシントン海軍軍縮条約反対派であったため、条約賛成派の主席全権加藤友三郎(海相)と激しく対立する。しかしワシントン軍縮条約後の人員整理(中将は9割)で、“ワンマン大臣”と呼ばれた加藤友三郎が加藤寛治を予備役に入れず、逆に軍令部次長に据えたことなどから、加藤友三郎は加藤寛治を後継者の一人と考えていた可能性さえあり、両加藤の間に決定的な対立は存在しなかったという見方もある

1926年(大正15年)12月から1928年(昭和3年)12月まで連合艦隊司令長官兼第1艦隊司令長官、その間、1927年(昭和2年)41日に海軍大将に昇進している。東郷平八郎の「訓練に制限なし」という言葉をモットーに、「精神一到何事のなさざらん」(出典、朱子語類)の精神至上主義を標榜、猛訓練を行う。

 1927年(昭和2年8月24日)、常軌を逸するような実践的な演習の強行により発生した美保関沖事件で殉職者119名を出し、査問委員会で査問に付けせられるが責任問題は除かれる。この本土一巡する大演習は事故後も続けられた。
 この事件の殉職者の墓標名は、加藤自ら墨書した「忠魂碑」で、全国的に稀有の存在である。通常、訓練、演習における殉職者は「殉難碑」、「慰霊塔」などである。加藤の深い思いが込められたのだ。殉職者の遺族は「これを知り、「国家に殉じた」たして心に受け止めたのだ。

 加藤は昭和4年から「11年までの忠魂碑参拝芳名録に、昭和4年と昭和11年の二回にわたり参拝した記録が残されている。


    
 
 また各宮殿下のご拝礼の記録は次の通りである。
 


 
補足

 最後に、この重大事故を引き起こした昭和初期の海軍大演習の実態を森川上等飛行兵の手記を参考にして述べ、この忠魂碑にかける海軍の決意と懺悔の心情にふれる。


「この大演習は昭和二年七月十七日、艦隊錨地である佐伯湾を抜錨し、奄美大島に向かい、ここを根拠地として約一ヶ月にわたり猛烈な戦技演習を連日行ったが、加藤司令長官は、停泊中も敵艦隊と潜水艦の夜間攻撃に備える警戒訓練として、舷窓の鉄窓を閉めきるという厳重な灯火管制を命じた。真夏、それも奄美大島沖の海域である。酷暑のため艦内は蒸し風呂のようになり、強健を誇る艦隊将兵も倒れる者が続出した。

八月一日、危惧されていた事故が発生した。機雷敷設艦「常盤」が、搭載していた機雷が突然の爆発により大火災を起こし、常盤の上甲板は爆発によりスクラップ状態となり、演習統裁部補佐官を含む三十八名が殉職、四十七名が軽重傷を負った(従来の機雷敷設訓練は模擬機雷を使用)「しかし常盤の爆発事故は、まだ序の口であった」。

 戦艦「陸奥」搭載の水上偵察機パイロット、森川上等飛行兵は「美保関沖事件」の惨劇を目の当たりすることになった。  中略
 「
衝突事故により演習は中止となり、事故現場付近の艦艇は救難作業を開始した。森川は捜索命令を受け、舞鶴から飛来した八機の海軍機と共に行方不明者の探索に当たった。 この事件後、加藤司令長官は舞鶴において、「此の度の為、意気を阻喪することなく、我が海軍の為、絶対必要なる此の戦闘訓練に尽される様、切望してやみません」と艦隊将兵に訓示し、敦賀、函館、横須賀などに寄港しながら移動戦技訓練を続けた」。以上

連合艦隊先任参謀近藤信竹中佐が加藤寛治司令長官の意図のもとに策定したこの度の過ぎた演習計画は海軍部内でも噂されたが、大鑑巨砲主義、軍縮反対を唱える海軍軍令部部長(後に総長)伏見宮博恭王殿下および東郷平八郎海軍元帥を信奉する艦隊派の旗頭である加藤大将の猛訓練はその後も続き、「月月火水木金金」の言葉を生み出し、海軍を信頼、期待しその猛訓練に声援を送る国民の間に広く流布した。この忠魂碑は、その猛訓練の結果生起したあらゆる事象の具像的象徴なのである。

この忠魂碑は科学技術の進展に対応し、明治以来の会戦要綱を修正することなく、日露戦争時の日本海海戦の主力艦会戦を金科玉楼とする教条主義に対する反省、非科学的、合理性を欠いた演習計画、および人命軽視の演習により犠牲となった事故の殉職者に対する懺悔、追悼、慰霊の墓標である

1929年(昭和4年)1月、鈴木貫太郎が急遽侍従長に転じた後を襲って、海軍軍令部長に親補された。ロンドン海軍軍縮条約批准時にも巡洋艦対米7割を強硬に主張し反対、首相・濱口雄幸、海相・部彪と対立。これが統帥権干犯問題に発展し、1930年(昭和5年)6月の条約批准後、帷幄上奏昭和天皇に直接辞表提出)し軍令部長を辞任。岡田啓介ら条約派に対し、伏見宮博恭王末次信正らとともに艦隊派の中心人物となった。

晩年、元帥府に列しようとする話が持ち上がったが、条約派の反対(特に小沢治三郎中将)で沙汰やみになった、1935年(昭和10年)112日。
1939年(昭和14年)29日、脳出血により死去。対米強硬派であったが、最晩年には米英との交戦を避ける心境に近づいていたといわれる。

 

 高橋三吉大将 (当時、連合艦隊参謀長、海軍少将)



 高橋は旧岡山藩藩士で、宮内省仕人高橋信孝の三男として東京市に生まれた攻玉社四年在学中に海軍兵学校に合格し、明治34年(1901)に第29125人中5位の席次で卒業。同期に藤田尚徳大将や米内光政大将がいる。殊に佐久間勉とは兵学校入学前からの親友であったと後に本人が書いている日露戦争には駆逐艦「叢雲」乗組員として参加。黄海海戦後に戦艦敷島」の分隊長に転任して日本海海戦に参加した。日露戦争が終わると砲術練習所に入所して砲術を学び、明治41年(1908)に海軍大学校乙種、翌年に砲術学校高等科、43年(1910)に海軍大学校甲種と、砲術に関する技術習得と研究にいそしんだ。尉官時代はこのように高等教育を受けたり艦艇の分隊長を歴任して経験を積んだりと、典型的な成績上位者の下積み時代をすごしている。

第一次世界大戦中の大正4年(19152月から翌年4月まで、少佐に進級していた高橋は欧米諸国を出張視察した。とはいえ、欧米諸国の軍艦に乗り込んで海戦を視察する観戦武官の地位は得られなかったため、戦場を見ることはなく銃後の社会を広く見聞するに留まった。視察から帰国した高橋は中佐に昇進。大正6年(19176月に第一特務艦隊参謀に任じられて海外派遣されるまでの一年間、戦隊参謀や戦艦副官を務めた。第一特務艦隊は、インド洋を横断する連合軍の補給船団をドイツ潜水艦の攻撃から守るために臨時編制され、シンガポールケープタウンに常駐して護衛任務を担当した。実際はドイツにインド洋まで潜水艦を派遣する余裕がなかったため、この艦隊は対潜戦闘をほとんど経験することなく、高橋は半年の任期を全うして帰国した。帰国後、大佐に昇進するまでの3年間は横須賀鎮守府第二艦隊の参謀、海軍大学校の教官を歴任している。

のちに高橋は強硬な艦隊派となり、米内は壊滅した条約派の遺志を継いで避戦に徹することになり、両者の思想信条は大きくかけ離れていた。しかし私生活においては高橋と米内は強い友情で結ばれていたといわれる。同級生の藤田尚徳とともに、昼行灯で出世に無頓着な米内の潜在能力を早くから見抜いており、自分と藤田より米内の出世が1年遅いことを苦々しく思っていた。

高橋が海軍の歴史に顔を出すのは、2年間務めた大学校教官を退いて大正11年(192211月に着任した軍令部2課長の時代である。前年にワシントン軍縮条約が調印され、高橋が課長に着任する直前の8月に発効となっていた。砲術専攻の高橋としては、幻に終わった八八艦隊があまりにも惜しく、条約に反対することを決意した。政府を牽引して条約を成立させた加藤友三郎大臣以下の海軍省が強力な権限を発揮したことを読み取った高橋は、海軍省から軍令部に権限を譲渡させ、軍令部の発言力を強化すべきと考えた。さっそく加藤寛治軍令部次長や末次信正第一班長に進言したが、実際にワシントン会議で主張を一蹴された加藤と末次は「時期尚早」として高橋の進言を却下した。さかのぼって大正4年、軍令部の権限拡大運動を画策した佐藤鉄太郎中将は、軍令部次長に着任して僅か4ヶ月で更迭された。加藤や末次が佐藤の二の舞を避けたいと思うのも無理はない。しかし、高橋案が却下されてから実現まで、僅か10年の歳月しか経たなかった。

大正13年から翌年にかけて、高橋は敷設艦阿蘇」・戦艦「扶桑」の艦長を歴任し、大正14年(192512月に少将へ昇進すると同時に軍令部第二班長に着任した。戦術戦略を担当する第一班と違い、高橋が担当する第二班は戦争指導が主務であり、高橋の私案を扱う部署ではなかった。

大正15年(192611月、連合艦隊参謀長に着任した。司令長官は加藤寛治で、連日激しい訓練を強いていた。このため、高橋の着任中にも敷設艦「常盤」の機雷自爆事故(殉職者38名、重軽傷者47名))などの事故が相次いだ。連日の猛訓練の結果、昭和2年(1927年)8月24日、夜襲訓練中に巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」、巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」の多重衝突事故が発生した。いわゆる美保関沖事件である。この時連合艦隊は大混乱に陥ったため、高橋は旗艦「長門」に退避を命じ、加藤も賛同した。それに対して大川内伝七参謀が怒声とともに抗議し、絶句した加藤に代わって高橋が謝罪して前言を撤回し、事故の収束に当たった。高橋本人は大川内の非礼ながら正鵠を得た抗議に感服したが、加藤はわだかまりを感じたようで、のちに大川内と同郷の百武源吾( 源吾。1882年(明治15年)128 - 1976年(昭和51年)最終階級は海軍大将。第7代九州帝国大学総長。佐賀県 出身)に「(佐賀の人間は偏屈で狭量」と口を滑らせ、逆に百武から罵倒される原因となった。

加藤は末次信正(1880年(明治13年)630 - 1944年(昭和19年)12 29日)は、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将、従二位・勲一等。第1 近衛内閣の内務大臣)や中村良三(1878年(明治11年)726-1945年(昭和20年)31 日)、最終階級は海軍大将、位階勲等は正三位 勲一等 功五級。 米内内閣の内閣参議 )とともに高橋を腹心として高く評価していた。しかし実際は、末次は加藤を最大限利用したに過ぎず、高橋と中村にとって加藤は頼るべき存在ではなく、たまたま上官になっただけの関係と見なしていた節がある。

昭和3年(19284月、連合艦隊に初めて空母を組み込むことになり、「赤城」を中心とした第一航空戦隊が設けられた。(上記の大演習には竣工直後の「赤城」が完熟訓練のため随伴している)。

 この初代司令官に任命されたのが高橋である。砲術一筋の高橋にとって、空母の運用はまったく異質なために相当困惑し、一度は辞退したものの、対米主力艦決戦における「漸減邀撃作戦」に航空機を導入する絶好の試用期間であると説得されて着任した。当時の赤城艦長は山本五十六大佐で、山本以下のスタッフの働きに高橋は大いに満足した。と同時に、航空が艦隊の中で重要な位置を占めると確信できたようで、のちに連合艦隊司令長官に着任した頃、「大和」「武蔵」の建造が始まった際には、戦艦建造の必要性があるかどうか再考を促すコメントを残している。鉄砲屋の高橋が宗旨替えしたことに技官たちは驚きつつも、「軍令部の意向に反して自分の経験だけで計画に横槍を入れるとは、連合艦隊司令長官はそんなに偉い立場なのか」と反論され、1年の司令官生活後、海軍大学校長に転出させられた。

 昭和6年(1931)、高橋が長らく暖めていた軍令部の権限強化を実行する絶好の好機が訪れた。満州事変が勃発し、関東軍の独走を事後承諾する形式とはいえ、参謀本部陸軍省より迅速に事変への介入と指導に邁進した。陸軍省をもしのぐ参謀本部の実力が遺憾なく発揮されたことで、海軍省に頭が上がらない軍令部の現状に問題提起しやすくなったのである。さらに軍令部長に艦隊派の伏見宮博恭王が着任し、高橋が昭和7年(19322月に軍令部次長に招聘されたため、雌伏10年にして私案を堂々と提出できる立場になった。伏見宮の激励も追い風となり、高橋は海軍省の権限を少しずつ剥ぎ取って軍令部のものに変えていった。 なお昭和7年に出版された「米国海軍の真相(有終会)」は「米国の工業力は日本の1020倍」「米海軍軍人の士気・能力は日本海軍軍人に劣らない」など日米海軍の戦いでは日本の勝利はおぼつかないとする内容の書籍であったが、高橋は海軍軍令部次長として、これを極めて高く評価する推薦文を寄稿している。

昭和8年(19333月、高橋は軍令部条例と省部互渉規定の改定案を提出した。この両法令は、平時に海軍省が掌握している人事権や予算編成の権利を、緊急を要する戦時には軍令部へ預けて迅速な戦争遂行を進める一方、終戦とともに海軍省へ返還する各種の権限を定めてある。これを平時にも軍令部に完全移譲させようというのが高橋の最終目標であった。この改正案は、昭和天皇が一読して「人事や予算が軍令部の勝手に使われる恐れが極めて高い」と憂慮するほど劇的なものであった。

軍令部と海軍省の交渉は難航することが必至で、実際に最初の衝突となった課長級協議では、南雲忠一第二課長と井上成美軍務局第一課長の罵倒合戦となり、予想通り決裂した。この席で南雲が井上を脅迫したことはよく知られている。嶋田繁太郎第一班長と寺島健軍務局長による局長級会議、高橋と藤田尚徳海軍次官との次官級協議も決裂した。高橋個人としては、同期の友人でありライバルである藤田と戦うことには引け目を感じていたが、次官級協議が決裂しても、最終協議をする伏見宮部長に対して大角岑生海軍大臣が異議を唱えることはないという勝算があった。高橋の予想通り、大角は伏見宮に屈服して改正案が認められた。

こうして十年越しの野望を達成した高橋は、この年の11月定期異動で第2艦隊司令長官に転任して赤煉瓦を去った。さっそく「大角人事」と揶揄される条約派粛清の人事が発動しようとしていた頃である。先に航空戦隊司令官を経験した高橋は、最前線部隊の第2艦隊にこそ航空戦隊が必要と説いた。しかし空母そのものが3隻しかないため、航空戦隊は第1艦隊しか設置できなかった。高橋の要望がかなったのは、4隻目の空母「龍驤」が完成し、高橋が連合艦隊司令長官に栄転した翌年11月のことで、第2艦隊時代に空母を運用する機会は遂に訪れなかった。

実働部隊の頂点に立った高橋の任期は昭和9年から11年までの2年間で、ここでも高橋は苦労を強いられた。昭和10年(19359月、台風接近の報告を知りながらも、訓練を強行したために多数の艦艇が波浪で損傷する「第四艦隊事件」を招いてしまう。荒天時の艦隊運用ができると判断し、幕僚の制止を押し切った高橋の判断ミスによるものだが、責任を問われなかった。昭和11年(19362月には陸軍皇道派による二・二六事件が勃発。この時には軍令部・海軍省とも大混乱に陥り、反乱軍を鎮圧すべきか黙認すべきか判断できない状況になった。高橋は独断で第一艦隊を東京湾に、第二艦隊を大阪湾に突入待機させ、いつでも反乱軍を攻撃できるよう万全な準備を整えて待機した。幸いにも反乱軍は自ら退去し、事態は収拾された。この年の4月に大将へと登り詰めた。

昭和11年末の定期異動で高橋は現場を去って軍事参議官に退いた。ロンドン軍縮条約が破棄されて建艦競争が始まり、盧溝橋事件を契機に日華事変が始まる時期である。高橋は軍令部の権限強化を臨んで自ら実現化させてはいたが、だからといって対米戦争を積極的に起こす気もなかった。しかし軍事参議官を務めている間にも、海軍では対米戦も辞さない空気が広がりつつあった。米武官の経験があって対米協調を重視する将官に百武源吾長谷川清山本五十六らがいたが、海軍省で戦争回避に奔走できるのは山本ぐらいしかいない。そこで高橋は藤田とともに海軍を去ることを決意する。両者が辞めることで、1年遅れで昇進していた米内光政を表舞台に引き上げようと画策したのである。米内が第29期筆頭に昇格すれば、第32期の山本では指揮できない31期の対米強硬派を制圧でき、閑職に追いやられた百武や現場指揮官に任じられた長谷川を米内の後継者として海軍省に呼び戻すことも可能になるのである。それを期待して高橋と藤田は身を引いた。米内が一度は日独伊三国同盟を退けたことは両者の思惑通りであり、米内が両者の期待に応えたのは周知のとおりである。しかし首相時代に陸軍から足をすくわれ、急速に求心力を削がれていったのは想定外のことであった。高橋は昭和14年(1939)に予備役編入を受けたため、太平洋戦争開戦前に対米戦に関して公的な意見を述べる資格を失っていた。

事参議官時代から、趣味の油絵や書に没頭しつつ、東京港水上消防署設立協賛会会長などの名誉職を与えられて悠々自適な暮らしをしていた。終戦後、満州事変時の海軍首脳としてGHQに逮捕された。伏見宮総長・大角大臣がともに死亡し、左近司政三次官は大角人事で追放された避戦派のため捜査の対象外で、高橋は唯一逮捕拘禁が可能な首脳だったためである。巣鴨では意気消沈して一時期は抑鬱に近い無気力に陥ったが、笹川良一の励ましを受け、褌姿で放歌しつつ踊るなど自らを鼓舞し続け、不起訴釈放となった。

高橋は風流を愛で、趣味の油絵や書に没頭しつつ、東京港水上消防署設立協賛会会長などの名誉職を与えられて悠々自適な暮らしをしていた。ニックネームは「三吉姐さん」。

 昭和24(1949)年、銀座の街中に、ひとりの品のいいサンドイッチマンのことが話題となります。噂を聞いたとある新聞記者が取材してみると、なんとこれが高橋三吉元海軍大将の次男の健二氏であることがわかった。

追補
 昭和11年、在郷軍人会結成令に基づき、美保関沖事件当時、遭難者の捜索活動に従事した鳥取県境町に海軍在郷軍人会「境海友会」が結成され、佐世保軍需部から時の連合艦隊司令長官高橋三吉大将署名入りの軍艦旗が交付された。
 高橋は美保関沖事件の夜間、無灯火、近接雷撃演習実施直前、「この計画は極めて危険なので」と計画の修正を申しいれた第二水雷戦隊先任参謀の小沢中佐の願いを受理しなかった。また高橋は昭和4年から昭和11年までの忠魂碑参拝芳名録に記載されてない。境海友会は大東亜戦争敗戦前年まで毎年慰霊祭を行い、この軍艦旗を墓前に掲げてきた。英霊に対する供養のため。

 後年、平成10年、北朝鮮のテポドン打上げの警戒監視のため日本海に展開した米第7艦隊所属の大型駆逐艦「クッシング」の境港寄港に際し、鳥取県西部海友会(昭和54年結成、境海友会の伝統を継承)の第六代会長の松下薫はクッシングの艦長サイモンズ中佐を戦後に墓標名を「慰霊塔」と変えた「忠魂碑」に案内して説明をおこなった。在大阪米国総領事館のロバート・ヨルダン総領事および同総領事館政治・経済専門官の天野到氏も同行、立会した。
 サイモンズ中佐はこのような無謀な演習を命じた加藤連合艦隊司令長官の責任問題を問うた。それに対して松下会長は「軍法法廷で審議対象とはなったが、責任問題には発展しなかった、そしてこの総合演習は事故翌月の9月1日、舞鶴で行われた海軍合同慰霊祭後も続けれた。加藤は翌年、海軍軍令部次長の要職に進み、その翌年には軍令部長(軍令総長)に補せられた」と述べた。サイモンズ中佐は言葉を失い、黙然と塔を見上げ、「これはロヤリティ・モニュメント、ヒストリカル・レガシイだ」と呟いた。そして「乗員にも見学させたいので翌日も説明してくれるか?」と問い、松下会長は「ウイリングリ」と答えたのだたった。

 



小沢治三郎中将 (当時 第二水雷戦隊先任参謀、海軍中佐)



 1886
明治19年)宮崎県児湯郡高鍋町で元高鍋藩士の父・小沢寅太郎と母・ヤツの次男として生まれる。宮崎中学(現・県立宮崎大宮高校)に在学中、不良青年と争いになり柔道の投げ技 で撃退したが、暴力沙汰として退学処分となる。陸軍軍人だった兄・宇一郎の上官・牛島貞雄から日露戦争の戦場満州より「過ちを改むるに憚ること勿れ」(論語 学而第一 8からの引用)の手紙を送られた事をきっかけに上京し、1905成城中学校へ転入した。小沢はこの手紙を終生大切に保管し、またその言葉を座右の銘とした。

1906(明治39年)3月、成城中学校を卒業、従兄の勧めで鹿児島県の第七高等学校と江田島の海軍兵学校を受験する。4月、第七高等学校に進学したが、海軍兵学校に合格したため退学する。1124日、海軍兵学校37期生に入学する。小沢は入学時の成績は183人中150番位だったが、よく勉強して卒業時には40番位にまで前進していたという。ゴツイ面相から同期から「鬼瓦」とあだ名をつけられた1909(明治42年)11月、海軍兵学校37期を179人中45番の成績で卒業。少尉候補生として二等巡洋艦「宗谷」に乗組。艦長は鈴木貫太郎、候補生の指導官に山本五十六がいた。1910年(明治43年)1月、外国への遠洋航海に出るため、小沢ら宗谷の候補生は皇居にて明治天皇に拝謁する1215日、少尉に任官した。装甲巡洋艦「春日」乗組。

1912(明治45年)4月、砲術学校普科学生。1912年(大正元年)8月、水雷学校普通科学生。12月、海軍中尉。駆逐艦「」乗組。1913(大正2年)12月、戦艦「比叡」乗組。1915(大正4年)2月、横須賀海兵団付。12月、海軍大尉。戦艦「河内」分隊長。1916年(大正5年)12月、海軍大学校乙種学生。1917(大正6年)5月、海軍水雷学校高等科学生。8月、同郷の旧高鍋藩士の四女の石蕗と結婚し鎌倉に家庭を持った。他にも良縁と思われる話があったが、一本の箸を立てその倒れた方向で石蕗に決12月、水雷艇「」艇長。

1918(大正7年)5月、水雷艇「白鷹」艇長。910日付で地中海で第一次世界大戦作戦中の第二特務艦隊司令部附を命ぜられ、919日に輸送船春日丸に便乗して任地に向かい、111日に第二特務艦隊所属の駆逐艦「」に乗組。1123日ポートサイドに着いた。しかし1111日に休戦が決まったため翌年7月まで休戦中の連合国軍輸送船団の護衛任務などに従事した。

1919(大正8年)121日、海軍大学校甲種学生。1921(大正10年)1130日、海軍大学校卒業。12月、任海軍少佐。駆逐艦「」艦長。1922(大正11年)1月馬公要港部参謀。1924(大正13年)8月、駆逐艦「島風」艦長。1925(大正14年)1月、「第三号駆逐艦」艦長。11月、戦艦「金剛」水雷長。19265月(大正14年)、連合艦隊参謀。12月、任海軍中佐。1水雷戦隊参謀。

 この時期に起こった美保関沖事件で、小沢中佐は、演習計画を綿密に精査し、夜間雷撃訓練を経験してない第一水雷戦隊所属の第26、27駆逐隊を、演習開始直前に第二水雷戦に所属替えするのは、敵味方の多くの軽巡洋艦が縦横に走り回ってるので、事前の調整、訓練なしで付け替えるのは極めて危険で衝突事故の発生も予測されるとして、演習計画の修正を具申したが、高橋三吉参謀長は「既に発令されたことである」としてその具申を加藤司令長官に進達しなかった。危惧された衝突事故は小沢が恐れたように起こった。

 1927(昭和2年)12月、海軍水雷学校兼海軍砲術学校教官。1929(昭和4年)12月、軍令部出仕。

1930(昭和5年)2月から11月にかけて欧米に出張した。ドイツ、イギリスで第一次世界大戦のユトランド沖海の参戦者を訪問し薄暮戦、夜戦について実情を聞き、これをまとめて報告した。この成果としてイギリス海軍主力艦の偏弾射撃訓練法が日本海軍に導入された12月、任海軍大佐。第1駆逐隊司令。
 1931
(昭和6年)1月、第4駆逐隊司令。4月、横須賀鎮守府付。10月、第11駆逐隊司令。12月、海軍大学校教官。戦術科長の小沢の授業は「固着した海戦要務令に捉われず、独創的斬新な戦法研究」を重視したものであった。ロンドン海軍軍縮条約以降、夜戦の議論が活発化し、夜戦部隊推進のために主力の援護が必要だが、かえって混乱を招く危険もあり、小沢を中心に研究を進められていた。小沢は全軍夜戦思想を力説した。薄暮に全艦隊戦闘し、夜戦部隊の接敵確保して夜襲し、翌朝の艦隊決戦で制勝する構想であった。小沢は軍機図書について質問されると「諸君は大学在学中そんな本は一切読むな」と型より独創性を説いた

1934(昭和9年)1115日、重巡「摩耶」艦長。1935(昭和10年)1028日戦艦「榛名」艦長。1936(昭和11年)121日、海軍少将。海軍大学校教官。
 1937
昭和12年)218日、連合艦隊参謀長兼第1艦隊参謀長。7月、支那事変開始。事変において第三艦隊の協力などの訓練が思うようにいかず、小沢の構想で連合艦隊の戦策訓練に画期的具体策を提案した。艦隊戦策を具体性豊かなものに改定し各級指揮官の迷いを払い、先制集中の実を獲得するアウトレンジ、母艦を分属させず一丸とし航空艦隊を編成し一指揮官のもとに統率、演練し集団的威力を発揮させるという内容であった。しかし海大の図上演習では賛同者はいなかった1115日、第8戦隊司令官。1938(昭和13年)11月、水雷学校長。

1939(昭和14年)1115日、第一航空戦隊司令官。
 1940
(昭和15年)3月、昼間雷撃演習で空母機と陸上機の混成部隊を統一指揮して協同攻撃を行い成功させた。旗艦「長門」で見ていた山本五十六は「飛行機でハワイをたたけないものか」と発言している。69日、「航空艦隊編成に関する意見書」を海軍大臣に提出。内容は、全航空部隊は建制において統一指揮下に集め、最高指揮官は練度を詳知し不ぞろいのないように計画指導し、統一指揮のため通信網を整備し、慣熟訓練する。そのために訓練も1つの指揮下に航空戦力を集めるべきである。研究の必要がある項目として、接敵期における母艦配備と事後の母艦運用の方法、各航空部隊の索敵、攻撃の分担、基地部隊と母艦部隊の協同方法を上げた。この意見書にある航空戦力を一つの指揮下にまとめる構想は翌年410日に第一航空艦隊で実現した[16]。飛行隊長淵田美津雄によれば小沢の下で母艦の統一指揮と搭載機の集団攻撃を研究し、それを小沢が母艦は一つの指揮権にまとめるべきという意見書として提出したという。また空母の集中配備も検討したが当時第一航空戦隊には空母は一隻しかなかったため結論には至らなかったという111日、第三戦隊司令官。1115日、任海軍中将

1941(昭和16年)1018南遣艦隊司令長官。兼マレー部隊指揮。128日、太平洋戦争開戦。開戦前に小沢は南遣部隊旗艦の重巡洋艦「鳥海」で発見した英哨戒機を打ち落とす命令を出した。小沢艦隊は英東洋艦隊を撃退すべく出撃し夜戦による雷撃での戦闘を行う作戦だったが、小沢艦隊は悪天候で敵と誤認した味方航空機から吊光投弾を受けて接近され、敵前で味方である信号を探照灯で発信し、航空司令部に緊急連絡することになった。この混乱で航空機は連携上危険とし夜戦はおろか触接誘致も困難であることから英艦隊撃滅をあきらめ、一時戦場を撤退、南方部隊と合流するために進路を北北東にとり、また英艦隊も察知されていると気づき奇襲困難のため作戦を中止し反転したため会敵はなかった。両艦隊は1時間ほどで会敵する距離まで近づいていた。

 その後マレー沖海戦で隷下の第二十二航空戦隊大英帝国海軍東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを撃沈した。退艦を拒否しプリンス・オブ・ウェールズと運命を共にしたトーマス・フィリップス提督の話を聞いた小沢は「俺もいつかはフィリップスと同じ運命をたどらねばなるまい」と話した

 コタバル上陸作戦支援。ジャワ上陸作戦で陸軍大将・今村均と交友関係を持ち、戦後もお互いの家がさほど離れていないことから交友は続いた。今村は小沢の伝記に寄せた序文が絶筆となった。少ない被害で予定通り任務をこなし陸軍から感謝された
 
1942(昭和17年)215日、小沢はスマトラ島南部東方バンカ島沖で敵艦隊を発見したが、日本の制空権下で水上兵力も優勢にもかかわらず船団護衛を理由に撃滅の機会を逃した4月、インド洋作戦に参加。第一航空艦隊の助けもありベンガル沖で船舶14隻撃沈3隻撃破に成功する7月、軍令部出仕。

 1942年(昭和17年)111日、第三艦隊司令長官。空母部隊だったが、小沢もその幕僚も空母での作戦経験があるものはいなかった。小沢は先任参謀・前敏一と参謀・有馬高泰を重用し、参謀長・古村啓蔵は軽視された。航空参謀・田中正臣は、小沢は自ら決し幕僚に細目を計画させる指揮官先頭型で実戦型という意味では満点に近いが、飛行機に対する知識が絶対的に不足しており、艦長が持っている程度の知識で訓練や性能の意味を良く知らなかったと評価する。小沢はミッドウェー海戦の図面を書いて即座に「暗号がもれてるぞ」と気づき、山本祐二中佐に徹底的に調査するように命令したが、調査した山本は「絶対に海軍の暗号はもれてません」と回答した。しかし小沢はその後も暗号がもれていると注意していた。1943(昭和18年)4月、連合艦隊長官・山本五十六の指揮の下でい号作戦に参加。11月、ろ号作戦に参加。小沢はラバウルの第一航空戦隊、草鹿任一中将指揮下の基地航空部隊を合わせて指揮し、第一、第二ブーゲンビル島沖航空戦を戦う。約半数のパイロットを失い、機材の80%を失った。空母2隻を含む10隻の米艦船撃沈を報告したが、実際は米艦船に撃沈はなかった。

1944(昭和19年)31第一機動艦隊兼第三艦隊司令長官。6月、マリアナ沖海戦で指揮。小沢は旗艦に軍楽隊を乗せていったほど勝利を信じていた652空飛行隊長として出撃した阿部善朗大尉は、甲板を散歩する小沢はいかにも頑固そうで尊大ぶった印象で航空部隊の運用についてどれほど勉強したか、飛行隊の実情をどこまで把握しているのか疑問に感じたという

 小沢は「ミッドウェー海戦で日本がやられたように敵空母の飛行甲板を壊すこと」「相討ちはいけない、負ける」、「味方の艦を損傷させてはいけない、人命より艦を尊重させる、飛行機は弾丸の代わりと考える」「ミッドウェーの失敗を繰り返さないように絶対に敵より先に漏らさず敵を発見する、攻撃兵力を割いても索敵する、三段索敵を研究せよ」「陣形は輪形陣でなければならない」と幕僚に指示し、攻撃は2段とし、まず零戦の爆撃で先制奇襲し甲板を破壊し主隊の飛行機で反復攻撃し撃破、追撃は前衛戦艦が全軍突撃するという案にした

 小沢は、航空作戦にアウトレンジ戦法を採用するが、日本側の航法援助の未熟さ、諸原因による搭乗員の練度の低さ、米側の直掩機VT信管による迎撃などのために失敗に終わる。基地航空隊や前衛艦隊(栗田健男司令官)が米軍機動部隊が同一海面で行動していると報告したが、小沢は第三艦隊偵察機の「米軍機動部隊は3箇所に分散している」という報告を信じて攻撃隊を向わせた。結局、栗田艦隊の報告が正しく、100機近い攻撃隊が空振りとなった。米機動部隊は日本の攻撃隊を各個撃破し「マリアナの七面鳥狩り」と揶揄した。620日、小沢は夜戦で挽回する準備をするが、連合艦隊長官の命令で撤退した。海戦後、小沢は敗戦の責任をとって辞表を作成している。本作戦では、パイロットの訓練をタウイタウイで中断させたことが練度低下につながり、さらに未熟な技量のパイロットに難しい戦法をやらせてしまった問題が指摘される

 小沢は、タウイタウイの航空基地の存否を確認するため幕僚を派遣するなどの措置を取らなかったこと、空母「大鳳」被害直後に第二艦隊長官・栗田健男に指揮継承の電報をしなかったことは一生の不覚だと回想している。また、小沢によれば「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた」という。しかし、第二航空戦隊参謀・奥宮正武少佐は、議論までしなかったが、大鳳の打ち合わせで、練度に自信がないため、反対意見を述べたという。また、角田求士は海戦後、搭乗員から「打ち合わせで遠距離攻撃は現在の技量では無理と司令部と議論した」と聞いたという。軍令部航空参謀源田実中佐も小沢の幕僚に忠告したという

 遠距離の米空母に気を取られた小沢艦隊は潜水艦に空母「大鳳」、「翔鶴」を撃沈され、20日に空母「飛鷹」も撃沈され、太平洋戦争中空母9隻を同時に指揮できた1回の好機を生かすことができなかった。また機動部隊艦載機の86%を失う結果となった指揮下の第二航空戦隊参謀として参加した奥宮正武は、米空母を一隻も沈められずに大小空母七隻がやられた責任の大半は小沢にあり、敗北後も小沢司令部は高級参謀が「勝敗は時の運」と話していたと語っている。また、積極的性格の角田覚治が機動部隊の指揮をとり、緻密肌の小沢が基地航空隊を指揮した方が、双方にとって適性だったと述べている

1013日、台湾沖航空戦に参加。

1024日、レイテ沖海戦に参加。日本の機動部隊はすでにその航空能力(搭載機)の過半を失っていたため、第三艦隊は囮部隊としてウィリアム・ハルゼーの機動艦隊を引き付ける役割を担った。空母機動部隊による牽制策は夏には作成が始まっていた捷号作戦で想定していたことだったが、囮とする発想が強調されたのは台湾沖航空戦の後、連合艦隊司令長官・豊田副武の発案によって取り入れられた。しかし、米側の主力機動部隊である第3艦隊38任務部隊が囮の第三艦隊ではなく、主力の栗田健男中将率いる第一遊撃部隊を先に発見して航空攻撃を加え、第三艦隊を1024日午後まで発見しなかった。このため、第一遊撃部隊は戦艦「武蔵」を航空攻撃で失うなど大きな損害を出し、1024日の牽制作戦(航空攻撃)は徒労に終わった。だが小沢は第三艦隊から発進した攻撃隊が米軍機動部隊に大きな損害を与えたとして、戦艦「日向」「伊勢」を突出させ、残敵を掃討するよう命じた。この前衛艦隊は、翌日空襲を受ける直前に空母部隊と合流した。翌1025日には米第3艦隊の目を引き付けたものの、適切な通信連絡すら齟齬を来たす程の航空攻撃により旗艦「瑞鶴」は早々に作戦能力を失い、旗艦設備の整った軽巡洋艦「大淀」に司令部を移乗する事態に陥った。第三艦隊司令部を収容した「大淀」の戦闘詳報には連合艦隊司令部の杜撰な指導に対する批判もあるが、一方で米正規空母群に対する牽制、誘致に努めるべき時機、期間、すなわち、第一遊撃部隊に対して自在の航空攻撃を許さないのはいつからいつまでであるべきかという観念を欠いていたと小沢の指揮への批判もある。レイテ沖海戦について海戦の計画の精緻さと頓挫について聞かれた際「あの場合の処置としては他に方法がなかった」という

小沢冶三郎中将が捷号作戦時や特攻隊隊員に授与した短刀。「義烈」や「護國」といった鞘書きがある。刀身は不銹鋼。
1025日から特攻作戦が開始され、小沢の指揮下からも特攻隊が編成され出撃していった。小沢は特攻隊員や捷号作戦参加将兵などに鞘書きした短刀を授与している。量産刀身に白鞘の外装で、刀袋に入れて授与された。

 1944年(昭和19年)1118日、軍令部次長兼海軍大学校長。12月、小沢の発案でPX作戦が進められる。細菌を保有するネズミや蚊を人口が密集する米本土西岸にばらまき生物災害を引き起こす作戦であった。航空機2機を搭載する伊四〇〇型潜水艦を使用する計画で海軍に細菌研究がなかったため陸軍の石井四郎軍医中将の協力を要請し陸海の共同計画となり、人体実験を含む研究が進められた。翌年326日、海軍上層部は決行に合意したが、陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が「アメリカに対する細菌戦は全人類に対する戦争に発展する」と反対したため実行はされなかった

 1945(昭和20年)2月、第五航空艦隊編制から現地部隊に任せていた特攻作戦を軍令部も指導するようになった。第五航空艦隊長官・宇垣纏中将は全力攻撃を行い、中央ではやりすぎ、中止させるべきという議が起こったが、小沢はやりかかったものをそんなことを言って止めるものにあらずと制肘を加えた38日、中央の会議で海軍は24万トンの船舶使用を陸軍に認めたが、313日に小沢は「食糧輸送船舶を含みかつ陸軍使用の影響は甚大、海軍特攻計画にも影響を与えることになるので同意できない」と異議を申し入れた
 4月の戦艦「大和」の海上特攻について事前に連合艦隊参謀・神重徳が許可を取りに来た際に軍令部第一部長・富岡定俊は燃料がないと反対し、軍令部総長・及川古志郎は黙って聞いていたが、小沢は「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と直接許可を与えた。小沢は「全般の空気よりして、その当時も今日も当然と思う。多少の成算はあった。次長たりし僕に一番の責任あり」という

1945年(昭和20年)529日、連合艦隊長官に就任し、海軍総司令長官海上護衛司令長官を兼ねた。就任の際に海軍大将昇進を打診されたが、小沢は断った。幕僚であった瀬島龍三によれば、小沢は決定すべき問題はその都度明確に裁決を下す動かざること山のごとき長官だったという66日、菊水作戦の続行方針を堅持しつつ、練習航空機特攻部隊に展開準備を命令624日、小沢は第三航空艦隊長官・寺岡謹平中将に剣作戦の部隊編成しマリアナ方面の基地にB-29戦力破壊を目的に捨身攻撃を行う準備を命令。またその際の制圧のため、銀河に多銃を装備させ強襲する烈作戦も準備を進めた625日、トラックに彩雲を輸送する光作戦、ウルシーを奇襲する嵐作戦の実施を発令神風特別攻撃隊第五御盾隊によるレイテ奇襲を目的とした第4丹作戦の準備を進め、84日に小沢は訓令を送り激励する。こういった中、終戦が決まった。

終戦前日の814日、幕僚を集合させ終戦決定のいきさつを話し、軽挙をふせぎ、油断を戒める両面を考慮し「決三、四、五、六号作戦警戒」発令の手続きをする。「お上の信用がまるでなくなってしまったので」と最後に深い悲しみを漏らした。小沢は軍令部次長・大西瀧治郎中将の自決については何ら意見を述べなかったが、終戦後部下を連れて特攻した宇垣纏については命令違反であると批判した。そして自分の幕僚に「君たちは腹を切ってはいけない。俺も自決しない」と明言し「俺は第一線で全力を尽くして戦ったが、戦争は不幸にして負けた。俺にはその責任はあるが、戦争を始めた責任は俺にはない」と説明した。終戦の際に厚木飛行場で小園安名大佐が抗戦を主張して厚木航空隊事件を起こした。小沢は反乱と断定して鎮圧を命令し部隊を派遣しようとしたが、小園大佐がマラリアで倒れたことにより事態が収束した。

戦後
1945年(昭和20年)1010日、予備役編入。10月末、米国戦略爆撃調査団に証言。 1966(昭和41年)119日、多発性硬化症のため死去。享年80

人物評
 米太平洋艦隊司令長官・チェスター・ニミッツ元帥は小沢について「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」という。

中澤佑中将によれば小沢は名実ともに海上指揮官として海軍の第一人者だったとう。源田実大佐によれば「小沢中将は、水雷戦術の権威で、昭和十五年以来は航空部隊の指揮官もやり、海空両面にわたる兵術家として知られ、青年将校の衆望も担っていた」という。

 
ただ、小沢は、「飛行機を弾丸と考える」と発言している。それは小沢ぼ専攻分野の水雷戦そのもの発想である。

連合艦隊で小沢の参謀だった千早正隆中佐は、マリアナ沖海戦での惨敗について「作戦計画及び指導が不適切であったことが、そのような惨敗を招いた一因であったことは否定することはできないが、それよりはるかに大きな主因は、昭和十七年から翌十八年にかけて、日本海軍がその艦艇、飛行機をソロモン方面の死闘ですり潰し、量的ばかりでなく質的にも日増しに勢力を増した敵側にマーシャル群島、トラック島へと追いまくられて、その兵力の再建の余裕が全くなかったことであった」とかばい、その後のレイテ沖海戦で囮機動部隊を見事に指揮したことや、終戦にあたって命に従わない部隊があった場合の対策をあらかじめ準備させたことから「小沢治三郎は先見の明と決断力に富む優れた連合艦隊司令長官であった」「(大戦中の連合艦隊長官の)四人の中では小沢治三郎が、連合艦隊司令長官としては、傑出していた」と評している。

注:大東亜戦争間の連合艦隊司令長官
  山本五十六大将 1939年8月30日→ (戦死)
  古賀峰一大将   1943年5月21日→ (乙事件で殉職)
  豊田副武大将   1944年5月5日→
  小沢治三郎中将  1945年5月29日→


                                     完