美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会のホームページ



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    国家安康の鐘

 

 

美保関沖事件殉職者 
    第90回追悼参拝式
(クリック)
        
主宰;慰霊塔顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会共催
                   支援:慰霊塔顕彰護持賛助会

 

         実施要項

1.           期日:平成30819(日曜日) 午前1030分から1時間

2.           場所:メモリアルホール  官公庁等来賓の湯茶接待の待機室を準備

3. 境港ウインドアンサンブルの演奏

4 準備作業:午前9時集合  マイクの設定、案内、受付台の設定

5. なおらい(慰労会)の実施

  場所:吉良常 二階大広間(50名収容)

  時間:12時から2時間 会費:3.500)

6.其の他

          以上


 

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 美保瀬沖事件とは

 海軍最大の演習事故、艦艇二重衝突事件「美保関沖事件」、(昭和2824日、深夜)

 場所: 島根半島東端の地蔵崎の東北3040km の海域(島根半島北東の沖合)

   「あなたは美保関沖事件を知っていますか」

       
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海軍10大事件の最大事故、美保関沖事件の全貌」 山陰放送 BSS
2006年初放送、静岡放送、北陸放送、山陽放送、および南日本放送で同時放送、事後、数度にわたり再放送された。

  2010年、年末特別番組(12291900から約40) 再放送
     
 松江市観光協会文化プロジューサー(元文芸春秋編集長) 高橋一清出演 絶版の「黒き日本海に消ゆ」復刻出版   の経緯
 山陰放送報道製作局長 荒川和也出演 企画、製作および資料、記録等収集の足跡     
 日本蝶類学会名誉会長、理学博士五十嵐邁(駆逐艦「蕨」艦長)の子息)出演 「美保関のかなたへ」著者
 海軍記念館美保準備室主管 松下薫 出演 (63隻の連合艦隊の艦艇モデルの製作、展示、説明)

  二等駆逐艦「蕨」780トン軽巡洋艦「神通」5000トンに激突され、船体をまつ二つにされ、同時に罐室の爆発であっという間に(26)に沈没した。生存者は甲板上で作業中に爆発で跳ね飛ばされ海中に落ちた後にからくも救助された22名のみである。軽巡洋艦「那珂」に艦尾を切断された二等駆逐艦「葦」はもぎとられ艦尾にいた下士官兵27名が行方不明となった。
  
 慰霊塔(本来の墓標名は「忠魂碑」)はこの両艦の殉職者119名を合祀している。
 また、軍事法廷の結審日に「全ての責任は自分にある」として自裁された軽巡洋艦「神通」艦長、水城中佐の霊も合祀されている。同中佐の霊は出雲大社にも分祀されている。


中海テレビ放送 CCO「慰霊塔顕彰護持
」 ここをクリック

     ユーチューブ表示画像枠の右に表示される題名「美保関沖事件」を選んでください。

 内容;

・美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会設立の経緯

・山陰放送テレビ番組「あなたは美保関沖事件を知っていますか」

・五十嵐邁著「美保関のかなたえ」出版記念講演(松江市一畑ホテルにて)


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境港市台場公園 美保関沖事件殉職者慰霊塔 (建立時の墓標名は「忠魂碑)        

         (20054月撮影)

お知らせ


 美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会 会長の交代

 第二代会長、岡空研二氏は、任期2年および留任2年、4年間の会長就任の任期を全うし、平成28913日に退任、後任は、初代会長川端広海顧問の推挙により、菊地英夫が第三代会長に就任することに決まりました。
 菊地英夫新会長は、海軍クラブ美保錨会の会長を兼務します。「13日会」の名称の頼母子講10名のメンバー(うち名3名は海軍クラブ美保錨会の会員) で実施して参りました例年の慰霊祭を継続し、この行事を次世代に継承すべく、会の充実発展を期待します。

 

会長挨拶  

 
平成201115日、鳥取県西部海友会の設立30周年に当たり、会員の老齢化により、第六代会長、松下薫の決断により同会を解散。解散宣言の後に、長年の伝統を次世代に伝承継承するため新たに立ち上げられたた美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会は、初代会長、川端広海氏、第二代会長、岡空研二氏のもとで今日までの間、会の組織基盤の確立、追悼参拝式の充実など多くの実績を挙げられましたが、第二代会長のご勇退により、この度、私、菊地英夫が第三代会長に就任することになり、ここにご挨拶申し上げます。

 美保関沖事件は海軍10大事故の一つで、暗夜の日本海で大演習を実施した際、巡洋艦の「神通」、「那珂」と駆逐艦の「蕨」、「葦」が味方部隊同士の2重衝突により、119名に及ぶ最大級の殉職者を出したことで広く知られておりますが、その慰霊塔は、本事故直後の捜索救助の根拠地とされた台場丘上に建設されており、建築物自体は山陰地方で一番古いとされる近代ゴシック式耐火、耐震、鉄筋コンクリート造りとのことで、境港市の文化財の指定を受けているものです。また、基部構造の局舎内に収められている二等駆逐艦の備砲や浮遊爆雷缶(係維機雷)は貴重な海軍の遺物であり、塔の頂部の六角形のカプセル状の構造物の内部には、数少ない殉職者の遺骨、遺灰の一部と一緒に宝石、貨幣、小銃弾が収められた納骨室があります。最近、慰霊塔がわずかに傾いている事実(0.6度)が判明しましたが、このように、この慰霊塔は由緒ある場所に建設された「殉職者の墓標」であるとともに「海軍の歴史を刻む貴重な遺物を収容した重要な遺跡」であることに鑑み、私ども美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会は、できるだけ将来にわたり現構造体を維持しつつ毎年8月下旬に追悼・参拝式を実施し、この忠魂碑である慰霊塔の存在とその意味を広く知ってもらうとともに、この歴史的事実を記憶し国家安泰のために殉じた英霊を追悼し顕彰する所存であります。

                     平成2811月佳日 美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会会長 菊地 英夫

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           日本海新聞記事

南家久光 賛助会会員 (元「海とくらしの資料館長」) が自作の簡単な計測器を用いて測定、発議した問題に端を発したものである。



慰霊塔の傾斜問題の対応
 (クリック)

 平成27年、指摘された慰霊塔の傾斜問題(0.6)を契機として、美保関沖事件殉職者慰霊塔顕彰護持会(岡空研二会長)、同賛助会(南家久光代表)、海軍クラブ美保錨会(菊地英夫会長)および海軍記念館準備室(松下薫主幹)の四団体は協議により、下記の事項に基づき、慰霊塔を現在位置において補強、修復し、国に対して史跡認定を図ることを市の文化財保護条例に定める手続により境港市教育長に対して申請した。

 申請の根拠:

1.    毎年のように発見される歴史的な資料および記録文献。これは大東亜戦争(特に太平洋戦域)における海軍の戦略、戦闘方針、および連合艦隊の壊滅に至る真実の歴史を表し、後世に遺す重要な教訓を導出することができる。
 また塔の基部構造の局舎内に収められている大正時代に製造さ
れた二等駆逐艦の備砲および係留機雷は、共にその取得経緯を表す境町町長と海軍呉鎮守府および海軍大臣との間の往復文書を備え、当時の姿のまま保存されており、これは稀有のことであり、海軍の貴重な遺物である。

2.  近代の文化遺産の適切な保護を図るため、平成736日、「国の文化財保護法」の史跡認定基準が改正され、「第二次世界大戦の終結頃までの政治、経済、文化、社会のあらゆる分野における重要な遺跡が史跡指定の対象になった事実に鑑み。

3.
オリンピック迄に、現在の史跡の整備と共に、新たに100か所の史跡を指定し、日本文化に関係する観光の対象とするという政府の方針に基づく。

                      以上

申請書に対する回答文書 (クリック) 


 前記四団体の申請に対し、境港市教育長からは受理不能の回答を得ましたが、我々は今後とも県および市の理解を得るよう全霊を挙げて目的達成のため邁進致す所存であります。多くの方々のご支援、ご協力を賜りますよう精一杯努めます。

                                                                                  四団体代表 海軍記念館準備室主幹 松下薫 (文責)

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新たな発見

慰霊塔(建立時の墓標名は忠魂碑)の歴史




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 平成25年は85周忌の節目の年に相応し,2月に美保関沖事件の全貌を記述した「境港市55周年史」が発行されました。23頁にわたり新たに発見された記録文書を含む詳細な記録が掲載され、このことは境港の市史では初めてのことでした。
 境港市市史編纂室の膨大な保管資料の中には多くの重要な記録は包含されていました。 編集者は小灘浩市史編纂室長です。



 境港市五十五周年史

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昭和天皇 お台場の忠魂碑(墓標の碑版が剥ぎ取られた白亜の塔)におなりになられた。
        (境港市五十五周年史には記載されてない)



連合艦隊の美保湾入港に関する鳥取県の公文書
        (境港市市史編纂室保管資料)

 
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艦隊の編成(艦艇の艦長の階級、氏名を含む)

   
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昭和2年当初に竣工した空母「赤城」が慣熟訓練のため艦隊に随伴していることが判明した。



 新たに発見された記録文書、写真等

 境港市花町の般若寺で庫裏の改修工事の際に、高さ75センチもある大きな位牌が発見されました。「帝国軍艦蕨葦殉難者諸霊位」と書かれています。古い写真や記録と照合の結果、この位牌は824日の演習事故直後の同月30日に旧面谷酒造の東側の広場(現台場公園)で行われた最初の追悼会で用いられたものと判明しました。 
 
 5年前に境港市主催で行なわれた80周忌の慰霊祭の「追悼展示会」(鳥取県西部海友会協賛)に殉職者の遺影の写真が飾られましたが、市史編纂室が保管する「蕨葦殉難者名簿」は展示されませんでした。この立派な表装の「蕨葦殉難者名簿」に艦尾を切断され大破した「葦」の殉難者28名と沈没した「蕨」の殉難者92名の120名の氏名階級が明記されています。
 また、慰霊塔には軍事法廷の結審前に、全ての責任は自分にあるとして全国からの多くの減刑嘆願に配慮した判決を聞くことなく、自宅で自裁された軽巡洋艦「神通」艦長、水城圭次大佐の霊が合祀された記録(慰霊塔工事概要および新聞記事)も発見されました。慰霊塔には合計121柱の諸霊が合祀されています。


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 境港市花町の般若寺で発見された大きな位牌 

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          第一回追悼式(昭和2年8月31日)
        
面谷酒造の東側の広場(台場公園) 

                               
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塔の基盤構造内の砲身、水雷缶設置についての経緯文書

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長年、美保湾を周回後に高松町の海岸に打ち下げられた仏具 (85周忌の祭典において公開展示)

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美保湾に集結した艦隊の写真を含む 「絵葉書セット」
             根平雄一郎 前境港市教育長 提供


     
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この画像の出所は、今回の新たな発見で説明された「絵葉書セッ」の一枚と判明した。 (夜間演習発動前の美保湾に集結した連合艦隊63隻の一部) 


 
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 二重衝突事故後、横一列になって遭難者の救難捜索を行う駆逐艦群(大阪朝日新聞山陰版に掲載)。
(「美保関のかなたに」には20隻の駆逐艦との記述がある)


 
 
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蕨葦殉難者名簿

「蕨」殉難者(順不同)92

中佐 五十嵐恵、機中佐 福田秀穂、 大尉 佐々木茂夫、大尉 内俊範 大尉 新田義熊、中尉 宮地道哉、機中尉 前田軍治、特中尉 藤田利一、 機特中尉 増田倉平、 兵曹長 古藤一令、機曹長 平川近次、兵曹長 鶴田勇吉、 機曹長 木場政晴、兵曹長 浅野若松、 一機曹 牧五郎、一機曹 真 野己久馬、一機曹 道山克己、二曹 松井万吉、二曹 小屋重盛、二機曹 今西一、*二曹 荷宮五郎、二曹 藤田清一、 二曹 高島順治、二機曹 猪熊盛一、三機曹 小川真二蔵、三機曹 長田綱盛、 三曹 増岡幸八、三機曹 竹岡信治、三機曹 西本清次、三機曹 山本仙次郎、三機曹 吉川三郎、三主曹 芳竹益喜、三機曹 高橋好太郎、一水 吉村逸郎、一水 林平八郎、一機 黒葛野武二、 一機 浜口英延、三曹 富永喜重、 三曹 原之園政義、三曹 小路正彦、三主曹 新菜巻太郎、三曹 園田太郎、三曹 山本昇、三曹 徳留九郎、三機曹 小川庄市、三曹 村田末男、三曹 松本速雄、三機曹 河内亀一、三機曹 須崎学、三機曹 松浦鹿象、二機 田代金次、二機 徳永登、二機 一柳忠則、二機 亀岡年春、二水 大崎年雄、二主 鶴田清、二機 坂本実、二機 妹尾重美、二機 佐竹道男、二機 中原信雄、三機 西田令吉、三機 緒方勝喜、三水 山口貞樹、一水 高田徳三、一機 森内伝吾、一看 石橋三二、一機 小川弥六、一機 飯村三次、一水 有川国良、一機 江川末吉、一船 林悦蔵、一水 砥錦文五郎、一機 若松豊成、一水 森山伍一市、二水 偵 茂世、二水 板垣根政幸、二機 大津次雄、二機曹 日高慶三、三曹 楢崎路雄、三曹 野村進、三主曹 遠竹重治、三曹 高田繁男、三曹 山内綱雄、三曹 猪股良作、三曹 中村徳次郎、三曹 本田智綱、三曹 古閑利次郎、三曹 池田正行、三機曹 中尾守、三水 和田稲吉、三水 岡山正義、三機 矢野猛

「葦殉難者」(順不同)28
兵曹長 甲斐次郎、 一機曹 草場茂雄、一主曹 山川茂、一曹 定村高政、一船曹 松下壮栄治、二機曹 野田益蔵、二機曹 北村伊作、二主曹 永松績、二曹 角喜左衛門、二曹 福永源吉、三曹 森本喜二、三曹 木村広喜、三機曹 口要谷八、三機曹 百留千年、三機曹、飯塚成俊、三曹 山口義雄、,一主 丸尾広喜、一水 都留正三、一主 友松義一、*一機 白石亀太郎、一機 佐藤国人、二主 松江乙弥、二水 岡田吉太郎、二機 一ノ瀬忠一、二水 宮下朝光、二水 実松栄次、三水 広川徳次郎、三水 江川重作

注:
1
 .*は91日、舞鶴で行なわれた海軍葬で119名の位牌と共に飾られた遺骨を表す。
2.
 「美保関のかなたに」には「葦」の広池二等機関兵は重傷(両足を切断)で舞鶴海軍病院で手当中、26日に死亡したとあるが、この名簿には記載されてなく、

現在調査中。 「蕨」の乗り組員名簿が水没したため826日頃まで救難現場は混乱した記録が記されている。

3.
下線付の氏名は引き上げられた遺体を示す。 

海軍合同葬後も遺体捜索は続き、91日に庭茂弥二等水兵と氏名判別不能な遺体を一体引き揚げ、92に藤田利一特務中尉の遺体を引き揚げ、西伯郡の上道火葬場で荼毘にふされたた 。910に新田義熊大尉と艦長、五十嵐中佐の遺体が引き揚げられ、上道火葬場で荼毘にふされた。 庭茂弥二等水兵は殉難者名簿に記載されてなく、現在調査中。
                           合掌  

                 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回の発表事項


「演習中の變報一タビ伝ワルヤ 天皇宸憚直に慰問セシメ給ヒ」の記録 

 慰霊塔正面の左壁面に備えられた文学博士三浦周行の追悼文石板から

)

昭和天皇は侍従武官、住山徳太郎海軍大佐を慰問使(勅使)として派遣された。            

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 事故の詳細は、前年 に即位されたばかりの昭和天皇(御年26)に、海軍次官大角岑生を通じて伝えられた。830日には海軍大臣岡田啓介も参上し、経過を奏上した。
 9
1日、海軍は舞鶴鎮守府において、殉職者合同葬儀が実施された。

慰問勅使上陸の場所、小林造船「現在は石橋造船鉄工所(株」の敷地」の桟橋 (この判定には幾つかの疑問点が提示されている) 
 

 北、東、南にコの字方に120メートル続く三段式台形土塁の上に、東宮宮、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)山陰道行啓記念(明治404)に植樹された黒松と同時に植えられた松の列が見られる(現在も南側土塁には繁茂した黒松が現存している)。 

      (現在、各種文献と照合中) 
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 内火艇は巡洋艦に搭載可能な九米内火艇。(全長:9メートル、全幅:2.3メートル、速力:8.0ノット、搭載人員:25、武装不可)と見受けられる。艇の船首に勅使を表す天皇旗が掲げられている。

 写真の右後部に見られる土盛は写真分析結果、自然丘陵ではなく、コの字方の西側に堤を築くため、および既設土塁、特に北側の補強、、並びに構内の敷地の整備用に積み上げられたものと推定される。

 また写真には砲身状の器物が見られる。これは明治初年に台場の任務は終わり、八門の砲(18斤砲 1、六斤砲 2、五斤 3)の大分は近郷の陸軍兵営に移されたが、地元の希望で数門の砲の車輪を外して台場の記念として残置されたもので、その一門の砲は砲口の形状から18斤砲と見られる。

 なお、これら残置されていた砲は戦後、海中に投棄され、爾後、第三国人が回収してくず鉄として関西方面に移送したと言う話が伝承されている。現在引続き調査中。



 事故の殉職者の碑は、境港市台場公園内に忠魂碑の墓標名(大東亜戦争敗戦後、「慰霊塔」と改名)で建立された。佐世保海軍墓地にも「葦と蕨の殉職者忠魂碑」が建立されている。

      



 
  佐世保海軍墓地管理事務所に問い合わせ、「葦、蕨殉職者忠魂碑」の銘板がある事を確認した。 (平成29720)


参考:

 美保関沖事件の約二週間前の81日、雷敷設艦「常盤」の甲板上で行われた甲種戦技演習中、実装機雷の爆発で35名が爆死し、68名の重軽傷者を出す大事故が発生した。その殉職者の碑、"雷敷設艦「常盤」殉職者之碑が佐世保海軍墓地にある。大演習は殉職者慰霊祭後、計画通り続行された。


  
                                       文責:海軍記念館美保準備室主幹 松下 薫

                                              
 研究事項

美保関沖事件に関与した三人の提督(加藤寛治大将、高橋三吉大将、小沢治三郎中将)

(副題:美保関沖事件から連合艦隊壊滅までの経緯の実相)


 この論述は、大東亜戦争、太平洋戦域で戦った連合艦隊司令長官四名(山本五十六大将、古賀峰一大将。豊田副武大将、小沢治三郎中将の履歴を参考にして論述(別添)


 

 

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第89回追悼参拝式

  
       平成29年8月20日(日曜)快晴、酷暑
       台場公園 慰霊塔前  午前10時から


 
遠藤恵裕フェースブック (賛助会員) 速報

 スケッチ
  
   
     取材状況 寸描


    

                 取材を受ける菊地英雄 会長
 
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、 追悼展示 洋画家 浜野洋一

    山陰中央新報 (9月1日) 

 
 
追悼参拝式で紹介、「蕨」の画、120(
2m, 縦、約1.5m) を作成した意図を説明


    
   
                                     配布資料の一部

   
      洋画家 浜野洋一 賛助会会員                     遠藤量 賛助会会員

     
       上野 薫 賛助会員                       海とくらしの資料館 大池 明 館長

  
                 
  参考展示:  関連資料、記録写真(海軍記念館準備室提供)


 
 8
20日から一92日まで延長展示  海とくらしの資料館内

 この展示会は顕彰護持会賛助会の後援で行われています。賛助会会員は多くの市民の方々をお誘いの上、この素晴らしい絵の大作(120)をご鑑賞ください。

 なお、海軍記念館美保準備室所蔵の貴重な関係資料、記録写真を背景説明のため展示してあります。

    
           
                 展示支援の賛助会会員
   

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              一般来賓受付   遠藤量、梅谷陽治、井上和夫 賛助会員、 1中ボランティア生徒

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                官公庁来賓受付
 佐名木市議会議員(賛助会員)と自衛隊鳥取地方協力本部米子地域事務所 近藤杏菜 海士長



    
         祭壇         国旗掲揚(半旗) 海軍クラブ美保錨会 
               福本鉄郎前事務局長と 1中ボランティア生徒

 祭壇の右に奉持された軍艦旗には、昭和11年、連合艦隊司令長官に就任した高橋三吉海軍大将が「境海友会 海軍大将高橋三吉と」自署された布片が縫い込まれています。同大将は昭和2824日の事故当時に連合艦隊参謀長 (海軍少将)として旗艦「長門」に座上し、事故に直面、翌25日、殉難者の救出作業を見守った因縁があります。

 追悼参拝式にこの由緒ある軍艦旗を掲げるのは、海軍在郷軍人会「境海友会」以来の伝統であり、殉職者に対する供養のためであります。塔の局舎の左正面壁面には文学博士三浦周行の追悼文の石板が備えられ、また右側の壁面には鳥取県西部海友会の創立20周年記念の記念事業として奉納した「艦艇衝突配置図」の石板が備えられています。

 局舎の内部には当時、境町長が海軍大臣に交付を願って据え付けられた砲身 (大正年代後期の二等駆逐艦の備砲) と浮遊機雷が配置されています。局舎内にあったので風波の浸食を免れて良く維持保管されており、共に貴重な海軍の遺物であります。機雷を係留するための50メートルの鉄連は戦後の混乱期に盗難により紛失したと伝えられています。

               
 

 
    
   追悼の辞 菊地英夫会長  追悼演奏説明 松下 薫事務局局長


         境港ウインドアンサンブル楽団 松本幸永団長 指揮

   

              

 演奏曲目  国旗掲揚(半旗)、降下に君が代
         
        追悼演奏
        1.軍艦行進曲(軍歌「軍艦の13番の間に、海軍儀制2号、大伴家持の長歌「海ゆかば」が挿入されている)
         この曲は昭和2年91日、舞鶴で行われた海軍合同慰霊祭で演奏されました。

        2.「葦と蕨の殉難の歌」         https://youtu.be/o53QGPrkclw で再生
        黙祷には国民歌謡「海ゆかば」(その荘厳な調は第の国家と称えられていた)


    

          
                主催者席

     
   官公庁等来賓

  
  
 左から 中村勝治境港市長、
   海上自衛隊舞鶴地方総監代理 管理部長 木下章 1海佐
   防衛省中国四国防衛局長代理 宮川均 企画部長
   衆議院議院 赤沢亮正事務所 河上定弘 秘書
   衆議院議員 舞立昇二事務所 堀 博之 秘書


   

  右から、自衛隊鳥取地方協力本部長 松田靖史 1陸佐
 参議院議員 青木一彦事務所 周藤司 秘書
 二列目には、境港市市議会議長、前顕彰護持会会長 岡空研二 議長のお姿が

   

 左から三人目航空自衛隊第3輸送航空隊司令兼ねて美保基地司令 北村靖二 1空佐
 陸上自衛隊第8普通科連隊長兼ねて米子駐屯地司令 福岡和博 1陸佐
 航空自衛隊第7警戒隊長兼ねて高尾山分屯地司令代理 副隊長 梶山隆興 3空佐
 自衛隊鳥取地方協力本部米子地域事務所長 井上俊二 3陸佐

  
手前、柊康弘 境港市市議会議員 (境港ライオンズクラブ会長代理)
   後席、右から 田中芳雄 境港市自衛隊家族会会長
   今岡祐一 日本会議鳥取県本部 会長
   石橋造船鉄工所() 石橋雄器 社長
   美保関観光() 三角邦男 社長
  原正美 様(駆逐艦「栂」艦長 原忠一中佐のお身内)

 

一般来賓

 
 
           前列左から 境港市ことぶきクラブ連合会 川口昭一 会長 
 
  
                          賛助会員席 献花担当 北村知里さん

   
                                    
池口麗嗣さんご夫妻、青谷町からの知人2人を帯同しての初参加

 


  
 
司会進行 戸田泰雄 慰霊塔顕彰護持会 理事       

 

 
  
「新たな発見」 説明  松下薫 事務局長       洋画家 浜野洋一 賛助会会員を 紹介
                                            (2等駆逐艦「蕨」の絵画製作について)



 黙祷  
 
国民歌謡「海ゆかば」演奏(その荘厳、清澄さは「第二の国家」と称えられていた)


 追悼の言葉

   
   追悼の言葉 菊地英夫 会長       追悼の言葉 中村勝治 境港市長
    
       追悼の言葉 海上自衛隊舞鶴地方総監代理 木下 章1海佐


  追悼電文の披露
 

  海軍クラブ美保錨会 佐々木憲四郎 副会長

     

        
 追悼電報
  
    赤沢亮正 衆議院議院
      舞立昇治 参議院議員
      青木一彦 参議院議員

 

献花
 
海軍儀制曲第2号「海ゆかば」
(大友家持の長歌、宮内庁雅楽部作曲) 演奏
(昭和2年9月1日、舞鶴鎮守府で行われた海軍合同慰霊祭で演奏)

  


  
                        防衛省中国四国防衛局 局長代理 宮川 均 企画部長
 
   


  


  
 
   
    鳥取県県議会 安田優子議員         境港市教育長 代理 川端豊 境港市市史編纂室長
 
献花は参列者全員が行います(ボランティアの生徒も含め)

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     取材を受ける境1中のボランティア生徒 
郷土史の課外実習の一貫として、慰霊塔の歴史的記録等の資料を配布し、説明ております。


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 御礼

ご神前香料
 美保神社宮司 横山庸之 様
 般若寺住職  正禅 様
 美保関灯台ビュフェ代表取締役 三角邦男 様
 原 正美 様
 松江市役所美保関支所()長 藤原俊一 様
 境港自衛隊家族会会長 田中芳夫雄 様
 生長の家 巽 弘子 様

お神酒(靖国神社神酒)
 石橋造船鉄工所()社長 石橋雄器 様

会場設営、撤収作業支援
 自衛隊鳥取地方協力本部米子地域事務所 様

祭壇用供花、献花用菊(150本)の提供
 (有)花のわたなべ
 渡辺秀隆 様

ボランティア支援
 ボランティア・センター 様
 境1中 ボランティア生徒の皆様


   
写真撮影は、佐名木知信、松下昭宣および遠藤量 賛助会会員

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 日本海新聞記事

 

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慰霊塔の清掃、周辺の除草および式場設定準備作業  8月19日午後4時から 

  http://navy5532.com/image368.jpg http://navy5532.com/image399.jpg          
 
http://navy5532.com/image400.jpg  http://navy5532.com/image401.jpg
                                  写真撮影は松下 薫 事務局長
 今回、初めて賛助会員、遠藤量氏、阿部政美氏(日本会議)の参加を得ました(上野薫賛助会員は従来から参加されています)
来年は賛助会員の更なる支援を期待いたします。

 境港市役所の福祉課の皆様、毎年のご支援を感謝申しあげます。

 設営指揮官を務められた植田建造理事の八面六臂のご奮闘、本当にご苦労様でした。


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中国新聞

美保関事件90年 記憶継承を模索 慰霊団体 美保関沖事件殉職者顕彰護持会のHPを改修し、情報発信

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    顕彰護持会 松下 薫 事務局長

 http://www.hiroshimapeacemedia.jp/wp-content/uploads/2017/06/c5045f35e4d416b3320c8eb88cfcd720.jpg拡大

 1927年、松江市美保関町沖で旧日本海軍の軍艦4隻が訓練中に衝突し、119人が亡くなった「美保関事件」から、今年8月で90年の節目を迎える。「悲惨な事故とその教訓を忘れないでほしい」。犠牲者の慰霊を続ける人々は、記憶の継承に動いている。(秋吉正哉)
 境港市花町にある「美保関沖事件殉職者慰霊塔」の顕彰護持会。松下薫事務局長(88)=同市馬場崎町=は自宅のパソコンに向かい、4月下旬から会のホームページ(HP)の改修を進める。文字を大きくするなど見やすくし、事件に関する報道や講演、会の活動記録をできる限り収集して載せた。

 事件は、軍縮条約で戦力を制限された日本海軍が、無謀な訓練を重ねたことが背景にあるとされる。松下さんは「起こるべくして起こった事故。人命や科学技術を軽視する風潮は終戦まで残った」と指摘。「精神至上主義に陥った戦前の教訓を伝えたい。HPを見た人の中から、事件に関心を持つ人が出てきてほしい」と話す。  事故現場に最も近い地蔵崎がある美保関町でも、同じ思いで海を見つめる人がいる。美保関灯台そばで「灯台ビュッフェ」を経営する美保関観光の三角邦男社長(77)は、八十回忌の2006年、地蔵崎に顕彰碑が建立された際、実行委員会事務局長として奔走した。
 それから11年。「活動を続けられる人が少なくなった」と振り返る三角さん。海の日の7月17日には、海難事故の根絶を願う安全祈願祭を昨年に続き開く予定でいる。

 同町沖では16年12月、底引き網漁船の転覆事故もあった。「事件とともに、多くの人が海の安全について考えるきっかけになれば」と願っている。

美保関沖事件
 1927年8月24日、松江市美保関町の地蔵崎から北東約32キロの日本海で、夜間の戦闘訓練中だった旧日本海軍の巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨(わらび)」が激突、避けようとした別の巡洋艦と駆逐艦も衝突した。蕨が沈没、ほかの3隻も大破し、計119人が亡くなった。

(2017年6月27日朝刊掲載)

参列者からの書簡

  



 洋画家、浜野洋一氏からの礼状

                         

 
御礼に代えて、編集後記
 

 
まずは、炎天下、休日の日曜日にも関わらず、官公民多数の方々のご臨席を賜り、ここに第89回追悼参拝式を挙行出来ましたこと、心より厚く御礼申し上げます。

 本年は多くの方からのメールやお手紙を頂きました。特に般若寺の住職様からは、次回の大掃除の際には倉庫を含め屋根裏まで探索して関係ある古文書、記録を捜して見ますとの真に有難いお手紙を頂戴致しました。美保神社の宮司様からも同様な御意向のお電話を頂きました。有難う御座います。 共に多額な神前ご香料まで賜りました。厚く御礼申し上げます。

 今回の式典はお盆行事明けの日曜日に当たっていたせいか、毎年ご参列下さる方の中、20名程の方々からご丁重な欠席のご返信を頂きました。しかし多くの賛助会員の方々の熱心な奨めで24名の初参加がありました。ご臨席下さった参拝者総数は昨年に比べで5名増の105名でした。裾野の広がりを感じ、嬉しく存じます。

 中学生のボランティア派遣については境港
ボランティア・センター (センター長、植田建造氏は顕彰護持会理事)の毎年のご協力に感謝申し上げます。ボランティアの生徒さんに対しては郷土史の課外教育の一貫として、この白亜の塔の歴史を理解してもらう様に心がけております。

 真夏の猛暑下の式典には天幕が不可欠ですが、多数の立朴のため天幕の展張に制約があり、もうこれ以上は天幕は張れないという問題を抱えております。 それで想起しました事は、顕彰護持会の前身である鳥取県西部海友会が昭和54年以来30年にわたって毎年527日の海軍記念日に式典を挙げてきたことでした。風薫る5月は爽やかな気候で降雨の心配も少なく、天幕展張を要せず、椅子を並べれば150人程の席が整然と整えられる利点が有り、一考する価値があると考えます。理事会で慎重に審議致したいと思います。殉職者の御霊も過去30年余の経緯もあり、馴染み深い海軍記念日行事として喜んでお許し下さること考えます。

 来年は、90回の節目の年、意義ある式典を挙げるため、追悼展示会の開催を含み、あれやこれや考えを巡らせております。
 
 終わりに当たり、今後共、何卒 私共慰霊塔顕彰護持会および海軍クラブ美保錨会の共催で行います行事に対し、ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
 有難う御座いました。
                                                    
                                              慰霊塔顕彰護持会 事務局長、 ホームページ管理者 松下 薫 拝
 
                      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



慰霊祭の記録(慰霊塔顕彰護持会発足以降) 
(再構成作業中)



・平成28年度 追悼参拝式

・平成27年度 追悼参拝式

平成26年度 追悼参拝式

・平成25年度 追悼参拝式 (楽団演奏曲の動画 ) (クリック)

 
・平成24年度 追悼参拝式

平成23年度 追悼参拝式


・平成22年度 追悼参拝式

アーカイブ
平成22年以前の鳥取県西部海友会の行事記録等全て収録してあります。

 

                                完